No. 1531 消費社会

消費社会

by Larry Romanoff

米国人がかつて財政的な責任を負っていたかどうか、貯蓄を重んじ、消費のために借金をせず、低品質の使い捨ての商品や製品を避けた時代があったかどうか、私は知らないし、もしそのような時代があったとしてもそれはごく短い間だった。エルマー・ウィーラー(世界最高のセールスマンと呼ばれた男。彼が信条とする5つの法則を記した1937年初版の「ステーキを売るな、シズルを売れ! 」はベストセラーとなった。「シズル」とは、ステーキを焼くときのジュージューという音のこと)がシズルを発見する20年前に、バーネイズ(エドワード・バーネイズは「広報の父」として知られる広報・宣伝の専門家)とその仲間たちは、すでに、明日のお金を今日使うという、同じくらい重要な概念を植えつけていた。そのプロセスは、取り置きプラン{1}から始まり、「Pay as you Go」(現金払い)、「No money down」(頭金不要)、「Buy Now, Pay Later」(後払い決済)などの簡単なクレジット制度へと移行していった。テレビ広告では美しい人々が新しい家や車、台所用品や家具、テレビ、衣服、休暇を楽しみ、その代金を今日支払う必要がないように見せかけた。マーケティング担当者はバーネイズ理論を使った心理学者を雇い、米国人の価値観を節約から永久消費に変える戦術的な計画を立て、彼らの想像を超える成功を収めたのである。米国のマーケティング担当者は実質よりも外見が重視され、ファッションのために品質が犠牲になる「使い捨て」社会を構想し、創造した。米国の自動車メーカーは、毎年モデルの外観全体を変え、昨年の車に乗っていることを恥ずかしく思うような広告キャンペーンで、交通手段をファッションアクセサリーに変えてしまった。1950年代以降、米国の自動車メーカーによる新型車のお披露目がその年の最大の「ファッション・イベント」のひとつになったほどである。そこには、技術や品質への関心はまったくなく、すべてはうわべだけの消費主義であった。

米国人の多くは若いので使い捨て社会が最近始まったものであることに気付いていない。何度も粗悪品を買い換えるほど裕福ではなかったので、品質と耐久性が購入の際の重要な特性であったのはそれほど昔のことではなかった。消費財は一生使うためのものであり、その多くはそうであった。おもちゃの多くは何世代にもわたって使えるものであり、実際そうであった。私は子供の頃、祖父から譲り受けた玩具で遊んだ。父は結婚したての頃母のために給料の2カ月分近くもする鍋のセットを買った。母は91歳で亡くなったが、その鍋は買ったときと同じように新しいものに見えた。資本主義の伝道師であるバーネイズとそのマーケティング担当者たちは、より早く、より多くお金を稼ぐより良い方法を見つけたのである。彼らは、良い製品を一つ売って永遠に顧客を失うよりも(その製品は交換の必要がないから)、品質を下げ、すぐに故障して交換が必要になるような、ますます安い製品を作って売るようになったのだ。この方法なら米国のメーカーは高い利益を得ることができ、無駄な使い捨て社会から永久にリピーターを得ることができるのである。

米国の製造業は、国の戦争マシンのために大規模な大量生産のプロセスを開発したが、戦後、これらの巨大な工場はほとんど休眠状態に置かれることになった。リップマンとバーネイズの解決策は、米国の工場が作ることができるすべての製品と一致する「必要性」という概念を国民の心の中に再定義することで、世界がこれまでに見たこともないような社会的価値の大きな転換を企てることだった。彼らは、戦時中のプロパガンダの方法を用いて、米国民に「より高い生活水準」を追求するために、可能な限りのものを購入する必要性を教え込んだのである。

   バーネイズは、商品を売るのではなく、感情そのものを売るというプロセスを開始した。消費という行為を、自由、幸福、権力、自信を感じることと心理的に結びつけることで、彼はアイデンティティと自己の概念を、購入可能なアイテムと結びつけたのである。

これが消費主義の真の誕生であり、だから米国だけに存在し、今も存在するのである。米国は簡単な信用と表面主義に基づく「倒れるまで買い物をする」使い捨て経済へと発展していった。数十年の間に、米国人は「倹約家」から「浪費家」になったのである。

バーネイズの消費ウイルスは全米国民に感染し、いかにそれが極端なレベルに達しているかにほとんど誰も気づかなかった。それは病的と見なされる段階をとっくに過ぎてしまった。国民一人当たりのショッピングモールの広さを示す指標として、ドイツは2.7平方フィート、日本は3.9平方フィート、イギリスは5平方フィートであるのに対し、米国では24平方フィートのショッピングモールが存在する。いわゆる「アメリカンドリーム」は、この大規模な心理的虐待から発展したものであり、より高い生活水準を求める米国人が 単なる無駄な購買や消費に走るのはそのためだ。米国経済は、その生活の75%を消費支出に依存しており、バーネイズと彼の「少数精鋭」が作り上げた強欲、不道徳、ねじれた心理原理なしには決して存在し得なかった完全に人工的な構造物である。米国人は今、この奇妙な消費基準を全人類の経済の基本姿勢として定義し、それを「ベストプラクティス」「神の意志」として中国に積極的に押し付けようとしている。

ガルブレイスはその著書『豊かな社会』(1958年)のなかで、米国の消費者需要が自然ではなく人為的であることをいみじくも指摘している。P&Gはその特異なマーケティング・モデルで広く知られている。このモデルは、プロパガンダによるほとんど人為的な製品需要を享受し、世界の他の企業の2倍という巨額の広告費に支えられている。もし広告宣伝費を打ち切れば数ヶ月のうちに売上が70%くらい落ちることは、秘密でもなんでもなく、P&Gの幹部の間でも認められていることである。ある作家はこう言った。

      製品の需要とその需要を合成するためのマーケティング費用には、非常に直接的な相関関係がある。

米国の工業生産のエリート所有者を代表するプロパガンディスト(宣伝者たち)は、早くから、仕組まれた需要と消費が彼らにとって富への王道であり、米国人を消費ウイルスに感染させる鍵を握っていることを認識していた。彼らは最終的に家庭だけでなく学校制度にも浸透し、今日米国人は幼稚園の時から消費が王様であると教えられている。このモデルでは工業生産は消費者需要の増加なしには増大しない。つまり米国人はますます多くの製品を欲しがり、それを手に入れるためにますます多くのお金を費やすように仕向けられなければならず、それはマーケティングや広告だけでなく、消費者金融の開発を意味した。米国人は今日の新製品を買うだけのお金がなかったために、彼らはますます明日のお金を借りて使うことを奨励された。PBSの番組シリーズで、ナレーターが次のように自慢していた。

    この時代の最も不思議な発明のひとつが消費者金融である。1920年以前は、一般の労働者はお金を借りることができなかった。1929年には、「今買って、後で払う」ことが生活様式となった。

これが今日の米国経済であり、不必要でますます低品質になる製品を生産・購入し、増え続ける広告費とブランド価値の虚構によって販売を煽り、そのすべてをクレジットでまかなうという、事実上そのような構図が出来上がった。

ガルブレイスは、米国社会では所有する製品で人を評価するということを正しく指摘した。何世代にもわたって、企業の宣伝担当者が「より高い生活水準」を求める努力、それはより多くのものを所有することと定義されるということをアメリカンドリームの典型として作り上げ、宣伝してきたため、今や米国人が自分や他人を無駄な消費の割合で判断するのは自然なことである。米国人の主たる社会的目標が、より多くの物を所有することであることは事実であろう。それは、何世代にもわたる強烈なプログラミングの直接的な結果である。米国人には生活の水準があり、ヨーロッパ人には生活の質があるとよく言われるが、これはほとんどの米国人には理解できないほど正確な観察である。ガルブレイスは米国の価値観が誤っていることを改めて指摘し、「我々は間違った目標、つまりナショナルドリームを設定し、それが現在の目立つ消費と所有という評価システムを作り上げた」と述べている。さらに米国の経済システムの根幹をなす消費への衝動は、生産と消費を名声の支配者として強調する誤った価値観を醸成することによって、意図的に生み出されたものであるとも書いている。

1920年代には、経済学者のポール・ナイストロムが、ライフスタイルの変化が米国社会を「空虚の哲学」、すなわち一種の社会的ファッションとしてそれ自身のための消費に誘導していると主張したことがある。ノルウェーの経済学者トースタイン・ヴェブレンは、「顕示的消費」という言葉を最初に作った。この言葉は、「自己愛に満ちた行動中毒、つまり、生活に必要のない高価な商品を、単に自分がそれを買えることを示すために購入を促すことによって、ある集団に引き起こされる一種の精神錯乱」と定義された。ヴェブレンの最初の提案は、顕示的消費はそれ自体が心理的な目的であり、優れた社会的地位という名誉を与える一方で、他人の嫉妬を引き起こすというものであった。このような消費は、新富裕層の行動に顕著に見られ、見せびらかすことで自らの未熟さとセンスのなさを示す。しかし、自分を比較的貧しいと認識している下層社会が、不必要に高価なものを購入することで心理的高揚感を得ている場合もある。米国の黒人居住区では、貧しいティーンエイジャーが、たまたま流行しているスポーツシューズを買うために、手の届かないほどの金額をつぎ込むことがよくみられる。

これは、本当に欲しいもの、生活に喜びや楽しみを与えてくれるものを購入することとは違う。本当に好きなもの、持っているだけで幸せになれるものなら、買って損はない。人生は生きるためにあるのだから。しかし、もしあなたが地位や名声のために、つまり、それ自体が好きだからではなく、他人に感銘を与えるために何かを買うとしたら、それはあなたの人生を生きているのではなく、他人の人生を生きていることになる。イギリスの経済学者ジョン・スチュアート・ミルは、このことを非常にうまく表現して、こう書いている。

   私は決して、その物自体への真の傾倒や楽しみから求められるあらゆる享楽を抑制してほしくはない。しかし、ほとんどの国の上流階級や中流階級の出費の大部分は、そのお金が使われたものによってもたらされる楽しみのためではなく、(世論を)考慮した結果なのである。

もちろん、米国の社会と生活の質は、このプロパガンダの当然の犠牲者だった。新車を買えという宣伝に圧倒されていると、学校や病院や高速鉄道のために税金を払うことにあまり共感できなくなる。そして、米国企業とそのエリートオーナーや金融業者が米国政府に対して事実上の所有権機能を発揮しているため、米国政府の政策は、国民や国家の最善の利益ではなく、資本家を支援するように修正されたのである。米国には政府が運営する医療制度がなく、教育よりも刑務所に多くの費用が費やされ、事実上全ての物理的インフラが今日崩壊しつつあるのは、何も理由がないわけではない。これら全ては、トップ1%に奉仕し、彼らの個人的な欲を満たすために向けられた同じプロパガンダから生じているのである。

他の国にはない米国のメディアの大きな特徴は、消費主義を微妙に、しかし執拗に補強していることである。ジョージ・ブッシュが9月11日以降にようやくテレビに登場したとき、米国人への助言はただ一つ、「買い物に行こう」であった。ベン・バグディキアン、ダニー・シェクター、ノーム・チョムスキーなどは、メディア・コミュニケーションのあらゆる側面に消費主義が広く浸透していることを詳述している。情報番組やドキュメンタリーなどの重要な手段は、『購買気分』を妨げるような深刻な複雑性や不穏な論争を含む番組を避けるためにメディアから排除されている。メディアのオーナーは米国人を自分たちの小さな地域世界に閉じ込め、世界についての膨大な知識から切り離し、視聴者が「精神が安定し、平和な気持ちになり、楽しむ」ことを望むのである。シェクターによれば、視聴者や読者に対するメディアの支配的なマントラは「黙って買い物をしろ」というものである。このアプローチには、資本主義の善意と自由企業の利益を常に売り込むことも含まれている。バグディキアンは、この文化的強化の微妙な形がほとんどあらゆるところに現れ、資本主義に媚びた企業イメージを表示し、「すべてのビジネスマンは善良であり、そうでなくても他のビジネスマンから常に非難されている」や「米国の生活様式」には文句の付けようがないという概念を広めていると詳述している。

P&Gのテレビ広告への支出は膨大であり、同社はその力を利用してテレビ局に番組内容を指図する。何十年もの間、P&Gはテレビ局に要求してきた。 

    いかなる種類の商業組織に対しても、直接的または推論的に不快感を与えるような素材は一切使用しない。私たちの番組には、ビジネスが冷酷で、情緒的あるいは精神的な動機付けを欠いたものであるという概念を助長するような内容は一切含まれない。

 聞き覚えがあるだろう?P&Gが「冷酷で犯罪的なまでに冷酷で、感情的・精神的な動機がまったくない」と簡単に分類できるような重要な出来事のリストを提供することは可能だ。それだけでなく、P&Gは米国の消費者を支配するユートピア神話を維持することに既得権益を持っている。同社のポリシーステートメントから引用する。

   アメリカの風習に対する攻撃があれば、同じ番組の中で完全に反論しなければならない。

   オーナーや広告主からのこうした影響力の結果、米国のすべてのメディアコンテンツ、ニュースだけでなくすべてのネットワーク番組、そしてすべての映画が、微妙だが完全な検閲の対象となり、そのすべてが消費社会だけでなく、米国の社会的、歴史的神話全体を強化するために連動している。米国のメディアとコミュニケーションの全体像が、ある種のプロパガンダに感染しているのだ。

マーケティング詐欺はひとまず置いておいて米国の消費者支出に関する最も重要な考察を確認しよう。改めて説明すると、米国経済はその生活の75%を個人消費に依存している。この比率は他のほとんどの国のそれよりもはるかに高く、約2倍である。この状態は、経済学的、心理学的にどう見ても病的である。このような状態は自然な発展から生じたものではなく、国の1%の産業界を豊かにするために、米国人を愚かな消費者に変えるために意識的に広められたマーケティング・プロパガンダの陰湿なプログラムが、何十年も、実際には何世代にもわたって続いた結果であった。このような規模の消費者支出を基盤とする経済は、非常にバランスが悪く、長期的には生き残ることができない。そして実際、その一時的な存続は、国家に多大な犠牲を強いることになる。ダム、高速道路、橋、空港、鉄道などのインフラが60年以上にわたって整備されず、崩壊が進行している。本来なら税金で取り立てて国の重要なニーズに使うべきお金が、ウォルマートで粗悪品に使われている。実際、国家の重要なニーズに必要な資金は、選ばれた少数の人々の利益のために企業の利益として吸い取られているのだ。しかし、今日の米国人は、中国に対して、自分たちに倣って個人消費を大幅に奨励するよう猛烈に求めている。もちろん、この伝道活動の一環として中国に対してインフラ支出やその他の国家開発をすべて中止し、消費者が消費するための資金を放出するよう、同様に激しく要求している。その理由は2つある。

一つは米国の言うとおりにすれば、中国の発展は凍結され、すべての改善が止まり、中国の未来への希望はつるべ落としになる。それもすべて計画のうちだ。第二の理由は、中国の個人消費が倍増することで米国人が利益を得たいと考えているからである。米国人が唱えた明らかに欠陥のある経済理論が、中国で支持されていることに私は驚いている。簡単に言えば、消費、つまり個人消費が開発投資に取って代わり、その結果、中国経済が支障なく成長し続けることができるというもので、妖精を信じなければ信用できないほど明らかに間違った理論である。消費、つまり個人消費は国家の成長と発展の原動力でもなければ創造者でもなく、成長の結果である。経済が成長すれば、賃金や所得が上がり、人々はより多くのお金を使うことができるようになる。投資を凍結し、国民に全財産を使うように促すことは、GDP統計に一時的な(そして誤った)効果があるにせよ、経済を「成長」させることはない。個人の貯蓄と所得を、消費財を販売する企業の経営者に移し、国を貧しくする一方で、主に米国の多国籍企業を豊かにすることになるだけである。この提案全体がゴミであり米国企業の利益のために中国に押し付けられ、中国の経済発展を遅らせて、中国を米国にとっての経済的脅威から取り除くという付加的な魅力があるのだ。そして、それがこの話の全てである。中国経済は持続不可能でも不均衡でもなく、「中国の成長モデルを投資や輸出ではなく、家庭の消費に牽引されるものに変えろ」という米国人のアドバイスに従えば、中国を破壊することにしかならない。そして、それこそが計画なのである。

Links:

{1} https://www.investopedia.com/terms/l/layaway.asp

{2} https://www.bluemoonofshanghai.com/politics/english-blue-moon-of-shanghai-archive/

{3} https://www.amazon.com/When-China-Sneezes-Coronavirus-Politico-Economic/dp/1949762246/ref=sr_1_2?dchild=1&qid=1606558781&refinements=p_27:Cynthia+McKinney&s=books&sr=1-2

https://www.unz.com/lromanoff/the-consumer-society/