No.516 世界が米国に神経をとがらせるわけ

今回は日本人から見ると米国と同じような印象を持たれるかもしれませんが、同じ北米でも米国とは常に一線を画しているカナダのジャーナリストの書いた記事をお送りします。

世界を騒がせ、その余波を他者のせいにする:
世界が米国に神経をとがらせるわけ
ジョン・チャックマン
『カウンターパンチ』 2002年3月2日

 最近、ある読者から、米国のどんなところを嫌悪するのかという手紙をもらった。その口調が丁寧だったこともあり、長々と返事を書いた。嫌悪しているかと聞かれれば、嫌悪してはいない。“嫌悪”(hate)はあまりに強い。ただし、米国について心穏やかではない気持ちはある。そしてそれは私だけではなく、多くの人もそう感じている。
 
1日24時間、テレビ、ラジオ、雑誌、映画、スポーツ競技、そして教会の礼拝においてさえ、米国が休みなく、うるさいほどの自画自賛に浸っていることはもちろん言うまでもない。この止まらない国家再生大会の大宣伝は、もはや米国の日常生活におけるBGMのようになっているため、多くの人はそれが普通でないと気づかない。

 ソ連の作家ソルジェニーツィンの『収容所群島』にすばらしい場面がある。スターリンの演説のあと聴衆が喝采し続け、止まらない。誰もが隣の人が喝采を止めるのを待つのだが、隣人も皆それを待っているため喝采は嵐のように永遠に続く。そのわけはソ連の内務人民委員部が通路を歩きながら、喝采を止める人を探しているからである。

ブッシュの米国とスターリンのソ連を変に不適切な比較をするわけではないが、ソ連の歴史的場面と米国の最近の出来事、特にブッシュが先に行った一般教書演説には、あまり気持ちのよくない類似点がある。

 一般教書演説でブッシュ大統領は、政治的手腕も機知も、それから思いやりすらも示さなかった。それにもかかわらず誰もが喝采し続けた。あるメディアの解説者は、ブッシュの陳腐な内容の朗誦を、本当の暗黒の時代にフランクリン・ルーズベルト大統領が行ったスリリングでリズミカルですばらしい演説になぞらえた。数人の有名なテレビ・キャスターは、あたかも自分たちの愛国精神を証明する必要を感じたかのごとく、おかしな盲目的愛国主義を語った。

 今日、アメリカはなんとつまらない国になってしまったのだろうか。裕福で、騒々しく、道徳のかけらもない米国。髪をセットし、厚化粧をした原理主義大道商人が、道徳の欠如を埋めるかのように行う弁論はただうるさいだけだ。

 盲目的愛国主義論と凡庸さが賞賛される米国。米国民は自分の権利と苦情の是正を求めてばかりいるが、自分たちの責任については考えたことがない。米国人は、他の人について知りもしないくせに、他の誰よりも自分は自由であると自慢する。

 国家の夢は、この地球上の他の人々を省みずにすべてを消費することになってしまった消費マシン。そしてうまくいかないことは、みさかいなくすべていつも相手のせいにするのが米国民である。

 人口は地球のわずか4%に過ぎないが、世界の違法薬物の半分以上を消費しているのは米国人である。しかしその耳障りな演説でも下手な外交政策でも、いつもその責任はメキシコか、コロンビアか、ベトナム、パナマ、麻薬密売組織といった自国以外にあると主張する。麻薬を吸い続ける米国人でも、また麻薬が一般的に入手できるようにしているとしか思えない米国当局ではなく、常に他国の誰かのせいなのだ。
 
 米国の傲慢さを最も示す歴史的出来事の一つが、各国の麻薬規制に関する年次「通信簿」の作成である。諸外国は、あたかも信頼できない子供のようだから、どのように麻薬規制を行っているかを賢い米国のおばさんが評価してあげましょう、というようなものである。今この瞬間にも、この賢いとされるおばさん自身が大量の麻薬を吸い込み、酔いつぶれているにもかかわらず。
 
 米国は、多くの地方選挙区において投票の操作や不正選挙の長い歴史を持つ。シカゴの投票操作がなければ、1960年の大統領選挙でジョン・ケネディが勝てなかったであろうことは、広く知られた事実である。また、伝記作家のロバート・カロは、リンドン・ジョンソンが投票の不正行為によってテキサスで政治家としてのキャリアを築いていった様子を暴露している。そして偉大なる共和国が作られてから225年がたった今も、米国は公明な大統領選挙ができずにいる。
 
 不正に加え適切な投票作業を行うことに費用を使わないだけでなく、米国では個人のお金は言論の自由であると定義され、いまだに不正な選挙運動資金にしがみついている。多ければ、多いほどよいのだ。過去数十年間にCIAが賄賂で使った数十億ドルが他国の政府の汚職に影響を与えたことが、米国内の選挙に対する考え方にも影響を与えたのだとさえ言われている。
 
 自分たちの行動を棚に上げながら、米国務省はそれでも他の国の民主主義の不備を相変わらず非難することを止めない。前の議会における大統領の弾劾審議と同じくらい重要であるとして、国務省が他の国の民主主義について見解を示すのは、麻薬通知表同様俗物的なものだ。悪いのは、必ずいつも他の誰かである。さらにひどいことには、民主主義や人権に関する非難がよく貿易交渉の条件に使われる。これほど偽善的なことは他にはない。
 
 過去数十年間にわたるCIAの賄賂、CIAが多くの国に対して行った内政干渉といえば、証明はされなかったが、数年前の米大統領選挙で中国から資金が入ってきた可能性があるという報道がなされたときの米議員の反応を思い出す。「中国はよくもそんな狡猾なことができたものだ。米国の選挙はなんと汚れているのだろう」。そのような違法な活動が可能であるのも、その腐った選挙資金制度を許している自分たち議員自身のせいであることは全く問題視していない。
 
 ブッシュの「悪の枢軸」という妄想についても考えてみよう。そのような単語を使うなど、放蕩時代に長いこと愛用したコカインがまだ抜けていないのかと思わず尋ねたくなるほどである。しかし事実は、世界のテロの多くはそれが実際の海外の状況というよりも、ジョージアやアイオアの夢想や希望を反映した米国の外交政策に直接対応した反応なのである。
 
 1980年代、CIAがアフガニスタンの仲間うちの内戦に30億ドルを費やしている間は、オサマやその家来たちに関する心配はいらなかった。しかし、米国もソ連と同じことにオサマらが気づくと、その状況は変わった。
 
 しかし、それは誰か他の人の責任にしないといけない。そこで米国はアフガニスタンの全国家構造をひっくり返し、インフラをほとんど壊滅し、無実の数千人の人々を殺し、数千人を違法犯罪者として保留し、下心があるといけないのでオサマ・ビン・ラディンが全く関係のないような場所も攻撃しようとしている。

 米国の元外交官は、アフガン戦士のために何百ものビザを発行したことを暴露している。さもなければどうして怪しい19人が米国に入国することができたというのだ。毎年盗聴活動に数百億ドルも使っているCIA、FBI、NSAが彼らの活動に全く気づかなかったなどということがありうるだろうか。これらの機関は、米国その他さまざまな国の電話、ファクス、電子メールをそのスーパーコンピュータを使って日々綿密に調べているのである。

 貿易センタービルの攻撃後、犯人とされる19人のうち2人がカナダ経由で米国に入国した可能性があるというニュースを多くの報道機関が流したが、それは全く間違いであったことが判明した。しかし、カナダ政府に対して、今でも大きな圧力が与えられている。米国は自国の不正を除去する代わりに、いつも誰かを非難しているのである。

 数年前、世界で最も裕福な米国が突然その条約義務を無視して、国連分担金の支払を停止した。米国は傲慢にもその責任を放棄し、国連の無駄と官僚主義を批判した。「無駄と官僚主義」はまさに米国の議員のものである。米国の議員は、数年にわたってどうでもいい、怪しげな不動産問題を捜査し、政府を遮断し、熱心に大統領を弾劾する劇を展開してきた。その同じ人々は今、米国の自由を奪うための手段や意味のない新防衛計画に数千億ドルを浪費する準備をしている。しかし国連は、その分担金をもらうために、米国に対し甘言とロビー活動を続けなければならない。
 
 数年前、米国の技術専門家は中国の熱核兵器のテストデータを分析して驚いた。なぜならそれがアメリカの最も高度なミサイル弾頭のそれと似た放射物の特性を持っていたからだ。すぐに産業スパイが疑われ、台湾生まれのアメリカ人科学者、ウェンホー・リーの長く痛ましい苦悩が始まった。まともに捜査がなされている間は、リーを捜査対象とする理由はなかった。結局、何一つ明確な証拠はなかったが、リーのキャリアは閉ざされた。非難の対象がいる限り、米国には、賢くて工夫に富む中国人が独自にその開発を行ったという推論は考えられなかったのである。
 
 キューバのエリアンくんの場合も、傲慢で鈍感な米国の態度を示す例である。米国には、カストロに対する憎悪キャンペーンの一環として、米国の海岸まで貧弱なボートでわたってきたすべてのキューバ人を自動的に亡命者と認めるという無分別な政策がある。その政策が他の多くの人をそうしたように、少年の母親を死の窮地に追い詰めた。少年には、愛する父や他の家族、友人がいたが、たまたま彼らが悪い国に住んでいた、ということになる。そのためにすでに十分傷ついていた少年は、イランの米国外交官のようにイデオロギーの人質となってマイアミで地獄の数ヵ月を過ごした。そして彼の父や家族、家庭は繰り返し馬鹿にされ、侮辱されたのである。これもまた悪いのは米国ではなく、この場合の悪者はカストロだという。
 
 私は読者に書いた手紙の最後にこう記した。たとえ私と反対意見でも異議を唱えることはない。私が異議を唱えるのは、失礼だったり、強要したり、反道徳的なときだ。そして米国の場合、そういうことが多いと言わざるをえないのだ。