‘The Horror! The Horror!’, Revisited in Palestine
by Pepe Escobar
ジャングルはここだ - 私たち全員の中に忍び寄っている。
「ミスタ・カーツ- 彼は死んだ」 – ジョセフ・コンラッド『闇の奥』(1899年)

コンラッドは、現在「ウクライナ」として知られる地で生まれたポーランド人で、23歳のときに初めて英語で小説を書き始めた。彼が自分の民族の文明化の使命に対する幻想を永遠に失ったのはコンゴにおいてだった。
彼の時代の他の著名なヨーロッパ人も同じ恐怖を経験している。征服の残虐スペクタクルに参加し、メトロポリスがアフリカをハッキングして略奪する手助けをし、アフリカ大陸を背景に殺人的な少年時代の冒険と通過儀礼を行い、あるいはただ先住民の魂を「救う」として自分たちの度胸を試したのだ。
彼らは世界の野蛮な中心を通り抜け、財産、評判、あるいは無意識の甘い安心に戻るために懺悔をした。もちろん、棺に乗せられて帰国することもあった。
様々な「原始的な」人々を支配するために大英帝国は鉄と剣を貿易に置き換えた。一神教の信仰と同じように、彼らは一つの道しかないと信じていた。紅茶の飲み方は一つ。いかなるゲームでも、ゲームのやり方は一つ。それ以外のものはすべて非文明的で、野蛮で、残忍であり、せいぜい原材料と頭痛の種を提供するだけだった。
内なるジャングル
ヨーロッパ人の感性にとって、赤道直下の世界、実際には南半球全体が、白人が個人的な勝利のため、あるいは解放して原住民といくらか “対等 “になるために行く場所だった。ヴィクトリア朝時代以降の文学には、ヨーロッパよりも、熱帯果実のような情熱に溢れ、変態的な自己認識を忘却の彼方まで体験できる “エキゾチックな “緯度を旅する英雄がたくさん登場する。
コンラッド自身、苦悩する英雄たちを地球の “辺鄙な”場所に置き、”文明 “やその型にはまった罰から遠く離れ、世界の影とともに彼らの影を償わせた。
そして『闇の奥』のカーツに行き着く。なぜなら彼はヨーロッパ文学では事実上前例のない自己認識の極限に到達しているからであり、自らの使命と種族の悪性の完全な暴露に直面するからである。
コンゴでコンラッドは純真さを失った。そして彼の主人公は理性を失った。
カーツがコッポラ監督の映画『地獄の黙示録』(1979年)に登場し、『闇の奥』としてカンボジアがコンゴに代わって登場したとき、彼は帝国のイメージを否定していた。そこで国防総省は彼を殺すために戦士的知識人であるウィラード大尉を送り込んだ。コッポラは、受動的な観客であるウィラードをカーツ以上に狂気じみた人物として描いた。こうして彼は、文明化する植民地主義の茶番劇全体の仮面をサイケデリックに剥ぐことに成功したのだ。
今日、私たちは新帝国主義の冒険をするために船出したり、霧の川の源を探すキャラバンに乗り出したりする必要はない。
スマートフォンの電源を入れるだけで、24時間365日、ライブの大虐殺を高解像度で追うことができる。恐怖との出会いは……『闇の奥』で恐怖だ、というカーツの言葉で永遠化された、恐怖との出会いは、朝の髭剃りの時にも、ピラティスをしていても、友人と食事をしている時も体験できるのだ。
そして『地獄の黙示録』のコッポラのように、私たちは、戦争、実際には倫理的に持続不可能なすでに負けている大虐殺に直面したとき、ヒューマニストの倫理的な混乱を自由に表現することができる。
今日、私たちは皆コンラッドのような登場人物であり、残酷に記憶に残る時代を生きるという茫洋と混じり合った断片や影を垣間見ている。事実の全体を把握する見込みはない。特に「事実」が捏造され、人工的に再現または強化される場合には。
私たちはまるで幽霊のようだ。今回は大自然の壮大さに向き合っているのでも、深く不可逆なジャングルを横断しているのでもない。しかしビデオゲームのように、荒廃した都市にプラグを差し込み、絶え間ない苦しみの共同作者となっている。「闇の奥」は「私たちの価値観」というの名の下、西アジアで「唯一の民主主義国家」によって構築されているのだ。
霧の向こうで、都市の檻として再現されたジャングルの中心で、目に見えない恐怖が繰り広げられている。女性や子供たちが無謀に殺害され、病院や学校、モスクへの絨毯爆撃がなされるのを、なすすべもなく見ている。まるで私たちは泥酔した船の乗客で、渦巻きに突っ込んでいく様子を見ながら、その壮大な風景の力強い威厳に感嘆しているかのようだ。
そして私たちは死を垣間見る前からすでに死につつある。
私たちはT.S.エリオットの「虚ろな人々」(1925年)の模倣者なのだ。ジャングルからの呪われた叫びはもはや「エキゾチックな」半球から聞こえてくるのではない。ジャングルはここで、私たち全員の中に忍び寄っている。