No. 2137 ボーイングと米国製造業の暗黒時代

Boeing and the Dark Age of American Manufacturing

いつの間にか、ボーイングは自社で飛行機を作ることに興味を失ってしまった。ボーイングはエンジニアリングの魂を取り戻せるのだろうか?

by Jerry Useem

ビル・ボーイングの姿は工場の作業場ではおなじみだった。彼のオフィスは、作業員がボーイングC型飛行機の木材を旋盤で削り、布製の翼を縫い、制御ワイヤーを固定する、造船所を改造した建物の隣にあった。「事実以外に権威はない事実は正確な観察によって得られる(THERE IS NO AUTHORITY EXCEPT FACTS. FACTS ARE OBTAINED BY ACCURATE OBSERVATION)」とドアの外に掲げられたプレートには書かれていた。そして、彼の飛行機が製造される過程ほど綿密な観察が必要なものがほかにあるだろうか?1916年のある日、ボーイングは不完全に切断された翼のリブを見つけ、床に落としてゆっくりと踏みつけた。「こんな製品を出すくらいなら、店をたたむ」と彼は宣言した。

今年1月、ボーイングが設立した会社のCEOであるデビッド・カルフーンがシアトルの工場に姿を現したとき、その状況は明らかに異なっていた。CEOクラスの一員としてゼネラル・エレクトリック社のジャック・ウェルチのお膝元で教育を受けたカルフーンは、隣から歩いてきたのではなく、バージニア州アーリントンにあるボーイング本社から約2300キロの距離を飛んできた。そして彼がそこにいたのは、空を飛ぶ前のずさんな製品を見るためではなかった。それはすでに飛んでいた。数週間前、ボーイング737のドアが飛行中に落下したのだ。カルフーンのオフィスは、彼の訪問の数日後、何が悪かったのかまだよくわからないと認めた。ドアの固定ボルトのねじ込みが間違っていたか、まったくねじ込まれていなかったかのどちらかだった。ボーイング社は何も言えなかった。規制当局が驚いたように、「作業が行われた記録がない」からだった。

この2つの場面は、25年以上かけてゆっくりと、しかし非常に意図的に飛行機を製造する事業から撤退した飛行機メーカーの奇妙な状況を物語っている。同社は40年近くにわたり、B29やB52爆撃機を製造していた工場で737の機体を製造していた。2005年、ボーイングはこの施設を民間投資会社に売却し、車軸用の油を遠ざけ、リスク、資本コスト、労働問題を「サプライヤー」に転嫁した。ボーイングはこれを「オフローディング」(責任などを他の組織に移すこと)と呼んだ。その一方で、尾翼、着陸装置、飛行制御装置、その他必要不可欠なものを他者が所有する世界中の工場にアウトソーシングし、それらは最終組み立てのためにボーイングに出荷された。ボーイングの今回の失態は、米国の製造業の衰退を嘆く際にしばしば見落とされがちな点を鮮明にドラマチックに描き出している。つまり、世界経済の力によって米国の製造業者の一部が永久に姿を消したとき、残った製造業者でさえも実際にものを作ることに興味を失ってしまったのだ。

過去30年間は、米国の製造業の暗黒時代として記憶されるかもしれない。ボーイングの凋落は、このような事態を招いたすべての失敗を物語っている。幸いなことに、この凋落はそこから抜け出すための教訓にもなっている。

ビル・ボーイングの時代には、マニュファクチャラー(製造業者)という言葉には価値があった。マニュファクチャラーズ・トラストで銀行ができた。フィラデルフィアの社交界の名士たちはマニュファクチャラーズ・クラブでゴルフをした。新しく設立されたハーバード・ビジネス・スクールの計画では、キャンパス内に現役の工場が建設されることになっていた。フォード、エジソン、ファイアストンといった当時のビジネス界の英雄たちは、製造現場から這い上がってきた。

彼らはそこで、まったく新しいモノづくりの方法を開拓した。交換可能な部品、特殊な工作機械、動く組立ラインを特徴とする米国の生産方式は、ヨーロッパのクラフト生産方式を大きく飛躍させた。そしてそれは、フォード、GM、ボーイングのような企業に圧倒的な勝利をもたらした。これらの複雑な新システムを調整するために、2つの新しい職業が生まれた。現場の言葉を話すインダストリアル・エンジニアと、会計の言葉を話すプロのファイナンシャル・マネージャーである。

当初はエンジニアの力が強かった。1930年の『アビエーション・ニュース』誌の記事で、ボーイングのエンジニアは、同社の検査官が「1機の飛行機の組み立てに使われる何千もの部品の製造を絶えず監督している」と説明している。技術者であったフィリップ・ジョンソンは、ビル・ボーイングの後を継いでCEOに就任し、さらに別の技術者であるクレアモント・エグトヴェットに会社を譲った。彼は、重役室からB-17爆撃機の製造を管理するだけでなく、自ら設計にも携わった。

第二次世界大戦後、米国は勝利のために使用した方法に固執することで、30年にわたる支配を享受した。同時に、後継者も育っていた。それはほとんど気づかれることもなく、物資のない敗戦国日本においてだった。新進気鋭の自動車経営者、豊田英二はフォードの工場を訪れ、そのシステムにいくら感心しても、日本では再現できないことを知った。例えば、ボタンひとつで正確に部品を打ち抜くために特化した何百台もの工作機械を買う余裕はなかったからだ。しかし彼は熟練工に最も効率的な方法を見つける自由を与えた。その結果、抜本的な改革が行われた:コストは下がり、ミスは減り、改良のサイクル、または「カイゼン」が繰り返されたのである。

そこに現れたのは企業に対する異なる概念だった。他部門の管理職が報酬を得るには、現場(「価値を生み出す場所」の意)を徹底的に理解する必要があった。いわゆるゲンバ・ウォークは、彼らが全体の組み立てを理解できるようになるまで、各工程に日常的に立ち会うことを要求した。そうでなければ、ムダになる危険性があったからだ。

日本の競争の波がついに米国企業に押し寄せたとき、担当者はもはやそれを理解するのに最適な人材、つまりエンジニアではなかった。米国の役員室は財務担当者に引き継がれていた。そして彼らは株主価値という新しい教義に催眠術をかけられ、出世の根拠は与えられたが、長期的な改善やコスト管理への持続可能なアプローチを追求するインセンティブはほとんど得られなかった。彼らの給与体系は、短期的な株価上昇に報いるものだった。株価を上げる方法はいくらでもあった。

これにより、1990年の分かれ目に到達した。MITの3人の研究者が『The Machine That Changed the World』(1990年)を出版し、日本のシステムを「リーン・プロダクション」(スリムな生産)と名付け、企業アメリカにそれから学ぶように促した。ちょうどその頃、日本経済が破綻し、米国企業への圧力が緩和された。その後数年間、米国の製造業はアウトソーシング、オフショアリング、金融工学を倍増させた。この一連の傷は自ら招いたものだった。すでに腐敗の悪臭が漂い、製造業は昨日のものとして見放された。

ボーイングの過去4人のCEOのうち3人を輩出したGEでは、製造業は「雑用」とみなされるようになった。GEの元幹部デビッド・コートが最近『フォーチュン』のショーン・タリーに語ったように。モトローラは、ガルバン・マニュファクチャリングとして設立され、その宗教的なまでの品質重視で有名だったが、ソフトウェアとサービスに傾倒した結果、携帯電話製造における主導権を失った。インテルは、アジアのライバルにハードウェアの主導権を譲るまでは、防塵衣(白色が多くバニースーツと呼ばれた)を着た工場労働者たちはハイテク製造業の顔だった。「インテルの現CEOであるパット・ゲルシンガーは最近、「かつてこの驚異的なテクノロジー開発のパイオニアであった我々は、今や世界で最も脆弱なグローバル・サプライチェーンに翻弄されている」と書いている。

大成功を収めた777の設計を監督した才能あるエンジニア、フィル・コンディットは、私が2000年後半にボーイング社を訪れたとき、ボーイング社のトップにいた。彼は製造現場を知らないわけではなかった。ボーイングのエバレット工場をゴルフカートで横切りながら、彼は頭上に広がる水平尾翼を指差した。737の主翼よりも大きいとは信じがたい、と彼は感嘆した。デュワミッシュ川のほとりにありながら、マクドネル・ダグラスとの合併で大きく膨れ上がった彼のオフィスで待っていたのは、また別の種類の歓喜だった。彼の母親は、その日のボーイングの終値のことを指して、「ワオ!ダブル・ワオ!」と彼にメールを送ってきた。そしてすぐに、彼がピュージェット・サウンド・ビジネスジャーナルに語った「どうやって飛行機を設計するか」と表現したものから距離を置きたかったことがわかった。翌年、彼はボーイングの本社をシカゴに移し、ちょうど同社が飛行機の組み立てに根本的に新しいアプローチに着手していた時期に、経営層を現場から引き離したのである。

ボーイングの最新鋭機787ドリームライナーは自社生産ではなかった。代わりにボーイングは設計と製造を「パートナー」企業のネットワークに委託した。それぞれが自らのサプライチェーンを管理する独自のミニボーイングとなったのである。「以前は、ボーイングの人々が設計図を作成し、それを持って行って ‘ちょっと、これを作ってくれる?’ と言っていた。シーポート・リサーチ・パートナーズのアナリストで元航空宇宙エンジニアであるリチャード・サフランは私に語った。「今はその代わり、彼らにそれを設計し、統合し、R&Dを行うように頼んでいる」。

この 「キャピタル・ライト 」(少ない資本投資で事業展開すること)アプローチには多くの魅力があった。厄介な労働組合、コストのかかる機械工場、開発予算がすべて他人事になる。コストが他の企業のバランスシートに移行することで主要な財務指標が即座に改善する。より少ないことを重視するこのアプローチは、表面的にはリーン生産に似ている。しかしリーン生産がノウハウを製造現場に押し戻すのに対し、このアプローチは製造現場とそのノウハウもあわせて排除する方向に進んだ。

それ以降には、ボーイングのエンジニアであるL・J・ハート=スミスが2001年のボーイング技術シンポジウムで発表した先見の明のあるホワイトペーパーで予見された問題が起きた。外部委託がもたらしたのは、部品が到着した際に正しく組み合わされていない可能性があることだった。ハート=スミスは、「これらの潜在的な問題を最小限に抑えるためには、主契約業者が現地で品質管理、サプライヤー管理、そして時には技術サポートを提供することが必要である。これが行われない場合、主要メーカーのパフォーマンスは、サプライヤーの中で最も技能が低いものの能力を超えることはない」と警告していた。

ボーイングはこれを聞かなかった。ウォール街はハート=スミスの論文を「暴言」だと一蹴し、ボーイングは各サプライヤーに独自の品質管理を担当させた。これらの管理が失敗すると、ボーイングは欠陥部品の修理費用を負担しなければならなかった。最も問題なのは、ハート=スミスが予見した危険なフィードバック・ループであった。会計上これらの修正は、実際にはアウトソーシングのコストであるが、代わりに間接費として表示され、社内作業は高価であるという印象を与え、製造工程のさらなるオフロードの根拠となったのである。

短期的には、これらすべてがボーイングのバランスシートに奇跡をもたらした。同社の株価は2010年から2019年にかけて600%以上上昇した。その後、ボーイング機の欠陥ソフトウェアによって引き起こされた2つの酷似した墜落事故により、合計346人が死亡した。

今日、シアトルのウォーターフロントに長く立っていると、遅かれ早かれ、ボーイング737の特徴的な形をした列車が南へ向かっているのが目に入るだろう。メタリックグリーンに着色され、尾翼がなく、明らかに完成品ではないが、指差して「ほら、あの列車にはボーイングの飛行機が乗っているよ」と子供に言うようなかんじだ。そうではない。側面のロゴマークがそれを物語っている。この機体を製造したのはカンザス州ウィチタのスピリット・エアロシステムズでボーイングからきたのではない。これがボーイングへ行くのである。

飛行機は複雑なシステムであり、1つの部品の故障が全体の壊滅的な故障を引き起こす可能性がある。組み立てはきっちり綿密に計画されなければならない。しかし現在では、特にボーイングが絶えずコスト削減をサプライヤーに対して行っているため、ミスが忍び込む機会が多くなっている。そしてFAAの調査官が、吹き飛んだドアとそれが収まるはずだった胴体の製造元であるスピリット・エアロシステムズ社を視察したとき、厳重な作業は見られなかった。彼らは、1つのドアシールが液体食器用洗剤で潤滑され、湿ったガーゼ布で拭かれているのを発見し、別のものはホテルのルームキーカードでチェックされているのを見つけた。

暗黒の時代は一度にやってくるのではない。暗黒の時代から抜け出すには時間がかかる。何かが失われたことを認識することから始めなければならない。ボーイングの凋落はそのような明晰さをもたらしてくれたのかもしれない。あなたは12世紀から来たかもしれないが、それでも洗剤とガーゼ布は飛行機を作るためのものではないことを知っている。ボーイングの最高財務責任者(CFO)は最近、同社が「アウトソーシングの話題で少し先を行き過ぎた」ことを認めた。ボーイングは現在、スピリット・エアロシステムズの再買収に向けて交渉中であり、次世代機777Xの複合材製主翼を、シアトル郊外に建設した10億ドル規模の新複合工場ですでに内製している。アビエーション・ウィーク誌は最新号の表紙で、「航空宇宙業界のエグゼクティブがついに現場を再発見した」と報じた。

残りの米国企業に関しては、ボーイングが激励してきた会社であるGEからの強力なシグナルの1つが来るかもしれない。運営に焦点を当てたボスであるラリー・カルプのもと、GEはついに、40年ほど遅れて、リーン生産方式の導入に取り組んでいる。遅ればせながら同社は、より効率的な製造方法を見つけ出すには、スプレッドシートで抽象化されたものを扱う遠隔地の経営者よりも、現場で働く労働者の方がはるかに優れているという現実に屈しつつある。

一方、重要な半導体分野では、インテルは、計算能力がおおよそ18ヶ月ごとに倍増するムーアの法則が、かつて支配していた製造技術の進歩によってもたらされていたことを認識している。インテルは、CEOパット・ゲルシンガーの言葉で言えば、「死の行進」に着手し、ファウンドリーの現場で失った競争力を取り戻そうとしている。CHIPS法は彼の背中に強力な政治的支持を提供した。グリーン・インセンティブやその他のインセンティブは、米国の工場新設への支出をより広範囲に、まさに地震的なまでに急増させる原動力となっており、現在では通常の3倍のペースで増加している。これほどの増設を経験している国は他にはない。

好きなだけ生産能力を増やせばいい。米国企業が、もうこの国でモノを作ることは不可能だという悲しく飽き飽きしたストーリーを語り続けても、製造大国としてのこの国の長い衰退を覆すことはできないだろう。この物語は、それを売り込む経営者の懐に多くの富を注ぎ込むのに役立ってきた。しかし、半世紀にわたる自業自得のダメージはもう十分である。ドアは外れ落ち、それは誰の目にも明らかだ。物語はかろうじてボルトで継ぎ合わされていただけのものだった。

https://www.theatlantic.com/ideas/archive/2024/04/boeing-corporate-america-manufacturing/678137/