No. 2652 イスラエル誕生の真実の物語

TRUE story of the birth of ISRAEL

ジョン・ミアシャイマー教授・ナポリターノ判事

ミアシャイマー:まず一般的な指摘として、シオニズム運動が始まった1900年頃にはパレスチナにユダヤ人はごく少数しかおらず、シオニストはさらに少なかった。 当時「この地は民なき地、民のための地」という格言があった。つまり土地を持たないユダヤ人のための土地という意味が、もちろんそれは全くの嘘だった。その土地には膨大な数のパレスチナ人が住んでいた。これが第一に心に留めておくべき点だ。

第二にパレスチナ人が多数住む土地にユダヤ国家を創設することは、パレスチナ人に恐ろしいことをせずには不可能である。重大な犯罪を犯さずにそれはできない。それは彼らの土地を奪うことも含まれる。そして非常に重要なのは、シオニストたちがこの事実を最初から理解していたと言っていることだ。ダヴィド・ベン=グリオン、ウラジーミル・ユリヤヴィッチ・ヤバティンスキーらは皆、これを完全に理解していた。

三つ目に心に留めておくべきは、シオニストたちが最初から人口統計に細心の注意を払っていたことだ。彼らは、パレスチナ人がイスラエルの地にどれだけいるか、それに対してユダヤ人がどれだけいるかを非常に気にしていた。そして80%か85%ユダヤ人というのが彼らの許容範囲だった。もちろん理想は100%ユダヤ人だったが、パレスチナ人の人口が20%を超えることは望まなかった。だから人口統計は重要だった。

もう一つ彼らが非常に注意を払ったのは、いわゆる移送(トランスファー)である。今でいう民族浄化(エスニック・クレンジング)だ。彼らは常に民族浄化について語っていた。公の場ではあまり言わなかったが、私的な場ではそうだった。なぜなら、パレスチナ人で満ちた土地にユダヤ人国家を築くためには、移送、つまり民族浄化を行わねばならないと理解していたからだ。最後に覚えておくべき一般的な点は、最初からほぼ全てのシオニスト指導者が国境に関して非常に拡張的な目標を持っていたことだ。彼らは広大な領土を含む大イスラエルを建設したかった。これはほとんどの指導者が公には表明しなかったが、指導者によってその大イスラエルの構想は異なっていた。たえばデビッド・ベン=グリオンは1918年にイディッシュ語で著書を執筆し、グリーンライン・イスラエルと呼ばれる領域、すなわち1948年以降に成立したイスラエル占領地であるヨルダン川西岸地区とガザ地区シリアの一部、レバノンの一部、ヨルダンの一部そしてシナイ半島を含んでいた。シオニストたちの野心が最初からいかに膨大であったかが分かるだろう。彼らは大イスラエルを創りたかった。これが今日イスラエルに正式な国境が存在しない主たる理由の一つである。公式の国境を持たない国は地球上でおそらくイスラエルだけだろう。大イスラエルを創り上げることに固執しているからだ。それがどんな形になろうとも。これが全体像である。

では具体的な話に移る。重要なのは1933年以前、ヨーロッパからパレスチナへ移住したユダヤ人はごく少数だったということだ。もちろん1933年はヒトラーが権力を掌握した年である。そして1880年から1920年の間にヨーロッパを離れたユダヤ人は約400万人いた。約400万人のユダヤ人がヨーロッパを離れ、パレスチナへ向かったのはわずか10万人で、多くはアメリカへ渡った。つまりパレスチナの地にユダヤ人がそれほど多くいない状況があった。そしてもちろん第二次世界大戦後には多くのユダヤ人がヨーロッパを離れイスラエルへ向かった。しかしほとんどのユダヤ人は西へ、カナダやアメリカのような場所へ行くことを選んだ。つまり1948年、国家が創設されようとしていた時点で人口の35%がユダヤ人で土地の所有率はわずか7%だった。だから考えてみてほしい。これは1948年、国家が成立した時の状況だ。

ナポリターノ:どうやって国家が成立したんだ?他人の土地を奪って突然、承認された国になるなんてありえるのか?

ミアシャイマー:第一次世界大戦まで、オスマン帝国つまり今日のトルコがパレスチナを支配していた。そして第一次世界大戦でオスマン帝国崩壊の結果、イギリスが委任統治領パレスチナと呼ばれる地域の支配権を引き継いだ。つまり第二次世界大戦後、イギリスの植民地支配への大きな抵抗があったのだ。イギリスはインドやパレスチナのような場所で抵抗に対処しようとした。イスラエル人、つまりシオニストはイギリスからの独立を望んだ。イギリスはうんざりするほど嫌気がさしていたので国連はイギリスが主導権を握りながらパレスチナに二つの国家、ユダヤ国家とパレスチナ国家を創設するよう強く推し進めた。それが1947年11月29日だ。そしてもちろん、イスラエルは1948年5月、約6か月後に創設された。これがイスラエルが誕生した経緯だ。国連によって創られたもので、その背後には主にイギリスがいたが、アメリカもこれに同調した。こうして誕生したわけだ。さて、理解すべきは国連が描いた地図がイスラエルにとって全く有利なものではなかったという点だ。まず第一に、パレスチナ内部で彼らが得た領土はごくわずかだった。さらに人口分布はユダヤ人55%パレスチナ人35%という状態だった。シオニストが全く気に入らなかったのは明白だ。そこで1948年、イスラエルが独立する前にイギリスが撤退する中でパレスチナ人とシオニストの間で戦争が勃発し、シオニストは国連案で与えられた以上の領土を奪い取った。そして膨大な数の、おそらく70万から75万人のパレスチナ人を追放した。これが悪名高いナクバだ。

ナポリターノ:どうやって彼らを追い出したのか?

ミアシャイマー:暴力は確かに使ったが、事実は、多くのパレスチナ人はほとんど抵抗せずに去った。シオニストたち、そして後にイスラエル人たちは1948年5月以降パレスチナ人を追い出すのは比較的容易だったのだ。その結果1948年にグリーンライン・イスラエルと呼ばれる国家が誕生した。これは国連計画でユダヤ人に割り当てられたイスラエルよりも広い。さらに、結局のところ、民族浄化により約80%がユダヤ人、20%がパレスチナ人となった。さて、これが最初の大きな出来事だ。第二の大きな出来事は、言うまでもなく極めて重要だが、1967年の戦争、いわゆる六日戦争だ。六日戦争でイスラエルはヨルダン川西岸地区とガザを征服した。これらは占領地だ。ついでに言えば彼らはまたゴラン高原も占領した。ヨルダン川西岸地区とガザを占領する過程で、彼らはさらに20万人のパレスチナ人をヨルダン川西岸からヨルダンへ追いやった。これが第二の大規模な民族浄化だ。最初のものは1948年のナクバで、約70万から75万人のパレスチナ人を追い出し、1967年にはさらに20万人のパレスチナ人と8万人のシリア人を前述の通りゴラン高原から追い出した。さてイスラエルがこれら全領土を征服した後に直面する問題はパレスチナ人と大イスラエルにおけるイスラエル系ユダヤ人の数だ。大イスラエルとは1948年のイスラエルに占領した二つの領土を加えたものだ。これら三つの地域にはおよそ730万人のユダヤ人と730万人のパレスチナ人が存在する。イスラエルが人口統計にどれほど注意を払っていたかは既に述べた。最悪の場合でも80対20を受け入れるだろう。彼らは本当に100対0を望んでいた。だが現実はほぼ50対50だ。人口動態の傾向は時間の経過とともにパレスチナ人がイスラエル系ユダヤ人を上回ると示している。これは重大な問題だ。そして10月7日が来た。この問題を理解した上で10月7日を考える必要がある。イスラエルが望むのはパレスチナ人を排除することだ。率を少なくとも80対20まで引き下げたい。現状は50対50だ。

ナポリターノ:今は50対50ではないだろう?

ミアシャイマー:おそらくまだ50対50に近いだろう。つまり、正確に何人のパレスチナ人が殺されたかは判断が難しいが、仮に10万人のパレスチナ人が殺されたとしよう、よく言われる6万人という数字ではなく。そうすれば730万人から720万人に減る。またかなりの数のイスラエル人が国外に去って戻ってこないと言うことができる。そうなると50/50のどこかに収まるわけだ。でも、たとえパレスチナ人45%、ユダヤ人55%でも、イスラエル人にとって受け入れられない。特に将来の出生率を考えたら。だから10月7日がイスラエル人にとって意味するのは第三の大きな民族浄化の機会となった、ということだ。繰り返すが、強調しておきたいのは、民族浄化、あるいは初期シオニストが移送と呼んだものが最初から彼らの頭にあったのだ。なぜなら多くのパレスチナ人が住む中で単一のユダヤ人国家を作るには民族浄化なしには不可能だからだ。そうだろう?とにかく、ガザで起きているのは民族浄化だ。もう一つ起きていることで今日あまり注目されていないが我々は見失ってはならないポイントがある。イスラエルは南レバノンを占領し、南シリアも占領している。彼らは撤退する意思など全くない。彼らはグリーンラインを越えた大イスラエルの創設に関心があるからだ。つまり1948年のイスラエルにガザとヨルダン川西岸を加えた国家だ。だから10月7日以降の出来事は民族浄化の機会であるだけでなくイスラエルの国境を拡大する機会でもあるのだ。

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