No. 2365 アサドの失脚

バッシャール・アサドの失脚

私とシリア独裁者の出会い

by Seymour Hersh

私の父の世代がこだわったのは、1941年12月7日、すなわち日本が真珠湾を攻撃し、アメリカが第二次世界大戦に参戦するきっかけとなった「不名誉の日」だった。私の時代では、それは2003年3月20日、ジョージ・W・ブッシュとディック・チェイニーの政権が、2001年9月11日のニューヨークとワシントンに対するオサマ・ビンラディンの攻撃に反応し、イラクの首都バグダッドを爆撃したときだった。

イスラム過激派による米国へのテロ攻撃に対して、イスラム過激派テロを敵視していたサダム・フセインのイラクを爆撃するという奇妙な決定は、米国が戦争に突入する中ではほとんど話題に上らなかった。米国は、軍が選んだたくさんのジャーナリストを伴ってイラクを侵略し、記者たちはペルシャ湾岸の熱烈な同盟国であるクウェートからバグダッドへ向かって米軍が進軍するのに同行して米国の栄光を報道することを許可された。

そして6月18日の夜、サダム・フセインは身を隠し、戦争も掃討作戦の段階に入ったと思われていた頃、イラク国境のシリア側で米軍特殊部隊による銃撃戦があった。武器や核爆弾ではなくガソリンの密輸に関わっていたシリア人80人あまりが殺害されたのだ。私はワシントンで『ニューヨーカー』誌の仕事をしているときに偶然この事件を知ったが、シリア政府は事件について一切の抗議を行わなかった。

私は以前、米国情報機関関係者から、当時、ハフィズ・アサド(ニクソン政権時代にヘンリー・キッシンジャーに協力した)の息子であるバシャール・アサドが率いるシリアは、アルカイダとの戦いにおいてアメリカにとって最高の諜報源のひとつになっていると聞いていた。皮肉なことに、シリアは1979年以来、米国務省のテロリストリストに載っており、ブッシュ政権からは国家テロのスポンサーとみなされていた。ある時期には、CIAに非常に重要な情報を提供していたにもかかわらず、ホワイトハウスから悪名高い「悪の枢軸」の準構成国として公に名指しされていたのだ。

だから私はそこに行かなければならなかった。

私はベイルートに知り合いがいたのでその人物がまず、ヒズボラの指導者ハッサン・ナスララとの面会をセッティングしてくれた。ナスララは9月27日、ベイルートの隠れ家でイスラエルに暗殺された。ナスララのオフィスからシリア国境までは車でわずかの距離で、そこからダマスカスまではさらに短時間だ。その時、私たちは公式の場で話をしていたのだが、ハッサン・ナスララは、イスラエルがイスラエル国内およびその他の地域のアラブ人社会に対して行っている仕打ちを憎んでいるが、アラブ世界が合意するいかなる和平合意も支持する、と私に語った。

世界最古の継続的に居住された都市と考えられているダマスカスは、魅力と美しさと歴史に満ちている。何が起こるのか、だれも想像できなかった。 私とアサド大統領とのインタビューが手配された。 しかし、その会合の前日、私はハマスのダマスカス事務所の代表であるハレド・マシャルとの面会に招かれた。 ハマスはヨルダンから追い出されたばかりで、アサドは彼らに一時的な居場所を提供したのだ。ハマスについてはほとんど知らなかったが、マシャルと長い朝と昼を共にし、多くのことを学んだ。マシャルは、クウェートで高校の物理教師をしていたが、イスラエルの暴力的な終結を主張するなど、過激な政治活動を行ったために解雇されたと語った。彼について最後に聞いたのは、この夏、ハマスの事実上の指導者に任命されたというニュースだった。イスラエルによる暗殺でハマスの指導部は弱体化しており、彼はもうドーハにはいなかった。彼は、1997年にアンマンでイスラエルがアヘンを使って彼の暗殺を試みて失敗したことについて、ダマスカスで私に教えてくれなかった。この暗殺を承認したのは当時イスラエル首相だったベンジャミン・ネタニヤフで、ネタニヤフは、激怒したヨルダン政府に公に謝罪し、賠償として囚人の釈放に応じざるを得なかった。

そして私は、ダマスカス市街にあるアサドの質素な執務室で彼と会った。私の頭はCIAからリークされたアサドが提供した信頼性の高い情報でいっぱいだった。その中にはアルカイダのメンバーや活動に関する何百ものファイルも含まれていた。それは非常に貴重な情報だった。また、シリア情報局が9.11テロ攻撃に参加した男たちの何百ものファイルを所有していることも知っていた。ワシントンで聞いた話では、参加しようとした者たちのファイルも多数所有しているということだった。

アサドの情報機関は、バーレーンに本部を置く米海軍第5艦隊本部に対するアルカイダの差し迫った爆破テロ攻撃についても、米国に情報を流していた。アサドがその件について話したがらなかったのは、私が思うに、それは新たに得た情報だったからだ。

特に、アサドがCIAの圧力を受けて、アルカイダ内部の、シリアにとって最も重要な工作員の名前を米国に教えたと聞いたときは驚いた。ただし、名前を教える際、CIAがそのスパイを直接勧誘しないという条件があった。もちろん、CIAは勧誘した。札束を山ほど積んで。シリアの情報筋は米国の勧誘を拒絶し、怒ってシリア情報機関との連絡を絶った。これによってCIAは素晴らしい情報源を失ったのだった。

シリア大統領は、私にシリアと米国のこの不謹慎な行動について一切公表しないよう強く求めた。そして、私はそれを守った。しかし、アメリカがアルカイダを打ち負かすために喜んで手を貸そうとする彼の姿勢には驚かされた。アサドが提供した情報を知らされたイスラエルは依然として懐疑的であったということを知った。もしアサドがアルカイダについて彼が主張したほど知っていたのであれば、9.11テロ攻撃の前に確実に知っていたはずであり、何の警告も与えなかったはずだ、とイスラエルの外交官は私に語った。その外交官は真剣にそう言った。

9.11以降、私がダマスカスを訪問した際のもうひとつ驚くべき思い出がある。私は1983年にヘンリー・キッシンジャーの外交に関する本を出版しており、キッシンジャーと同様に、当時尊敬を集めていたシリア軍の将軍の一人の才気に魅了された。私が彼を訪ねたとき、彼は退役しており、妻と質素に暮らしており、私を夕食に招いてくれた。私は喜んで彼の家へいくと2台の新しいベンツが彼の家のドライブウェイに停まっているのに気付いた。

夕食はオフレコだった。彼は私が聞いていた通り英語が堪能で、奥さんが寝室に入り家が静かになった後、少々アラックを飲んだ後だったが、将軍は私に特別な物を見せたいと言った。私たちは地下室に降り、私は数十枚の写真に迎えられた。その多くはポルノ写真で、ヨーロッパで最も有名で最も美しい映画スターの写真だった。彼女の裸の彫像さえあった。

これが将軍の最も大切な宝物だった。2階の壁にかかっている勲章やペンダントではなく。1960年代初頭にシカゴ警察を担当し、あらゆることを見てきたと思っていたシカゴっ子にとって、これはとんでもない驚きだった。

イラク戦争が泥沼化し、アメリカがサダム・フセインがイラクのどこかに隠していると確信する一部のワシントン関係者の大量破壊兵器の捜索に明け暮れていた頃、私はアサドとさらに数回会った。私はベイルートでナスラッラーと会い続けていたため、ダマスカスからの招待が続いたのだ。

その時、多くのシリア人がアサドに対して抱いている激しい憎悪と軽蔑を知った。私の関心は常に国際的な出来事に向けられており、国内情勢には関心がなかったが、ダマスカス郊外の農村部の困難については認識していた。私は、ダマスカスの歴史ある旧市街にある優雅な邸宅の中庭で開催される国際的な弦楽四重奏団のコンサートに招待されていた。

中庭には100脚ほどの椅子が置かれており、前列の2つの空席はアサド夫妻のために用意されていた。 彼らが到着した瞬間、失望と不満の声が群衆から巻き起こった。それは無視できないものだった。 私は招待してくれた友人に事情を尋ねた。彼は、アサド一族の横行する汚職や、反体制派の投獄や残虐な扱いに対して大統領が消極的な姿勢であることに対する、大統領への大きな侮蔑の念を私に語った。

私は大統領にアサド一族の汚職について何度も尋ねたが、彼は何度も何度も、叔父や従兄弟たちの際限のない金銭欲を止められないと訴えていた。反体制派の投獄については、刑期と刑務所での虐待を最小限に抑えるために、常に治安当局に介入していると説明していた。私は『ニューヨーカー』誌の記事で、アサド大統領を批判する声が強まっているさまざまな人権団体を引用するようにした。しかし、それだけでは不十分であることが、数年後に明らかになった。

当時、私はシリアに関する多くの外部からの苦情に対処していた。例えば、アサドが核爆弾を製造する秘密プロジェクトに関与し、ユーフラテス川沿いのダマスカス北東数百マイルにある地上原子炉でウラン濃縮を行っているという、イスラエルの未だ立証されていない主張などだった。2007年には、イスラエル空軍がこの施設を爆撃し、その様子は広く報道された。私は、その施設は原子炉ではなく、シリアのミサイル兵器の改良に関与していたと報告した。そうではないと主張する人も多いが、国連の監視下で破壊されたシリアの化学兵器および生物兵器については、17年間にわたって徹底的かつ正確な報道がなされてきたが、シリアの核兵器開発計画についてはまったく報道されていない。今でも、その施設では北朝鮮からの労働者の協力を得てウラン濃縮が行われていたと信じている人も多い。

その後の展開を想像することは不可能だった。2012年に始まった内戦、そして2015年にロシアが空軍を介入させたことでアサドが生き残ったことなど。600万人のシリア人が国外に脱出し、ヨーロッパの大部分で難民危機を引き起こす一方で、アサドが属する宗教的少数派であるアラウィ派の役割を強化した。増大する政治的反対派に対する投獄や拷問も増加した。私は2011年後半にダマスカスを最後に訪問した際、アサドと会うよう招待された。その頃、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が主導し、イスラエルとの和平合意の可能性が噂されていた。

結局、別の戦争をしているロシアのプーチン大統領が、11月下旬に妻子をモスクワに送ることをアサド大統領に許可した。失意の、嫌われたシリア大統領は、10日後に妻子に続きモスクワへ亡命し、長年続いた内戦で荒廃した古代ダマスカスは静かに不確かな未来へと落ちていった。

https://seymourhersh.substack.com/p/the-fall-of-bashar-assad