No. 1107 グローバル化の懸念

日本でグローバル化が強く叫ばれるようになったのは、平成時代になってからである。国と国の違いを前提とする「国際化」と異なり、グローバル化に国境はなく、人、金、モノ、情報などが自由に移動できる、それがグローバル化の概念である。

グローバル化により海外からの資本が日本に流入し、経済は活性化して国民の生活が潤うというシナリオのはずであったが、平成に入って日本の経済や社会が良い方向へ向かってきたかといえば、現実にはそれとは反対のことが起きている。貧富の格差が拡大し雇用は不安定になるなど、多くの国民の安寧が損なわれてきたのだ。

グローバル化の発祥地であるアメリカも、19世紀にはグローバル化という概念は存在しなかった。国内の市場拡大に忙しく海外への進出を考える余裕はなかったという方が正確かもしれない。国内市場の需要を満たすために労働者が足りず、供給が追い付かない状態となった。そのため労働者の賃金が上昇し、それが消費者である労働者の購買能力を増やし、供給が足りなくなるという循環が出来上がったのである。

しかしこの好循環も長くは続かなかった。国内市場が飽和状態になると、企業は利益を増やすか維持するために賃金を下げ始めた。消費者とは労働者とその家族であり、賃金の減少により国内消費は減退した。そのため景気が落ち込み、1929年の株式市場の暴落から恐慌となり、第2次大戦が始まるころまでそれは続いた。

停滞したアメリカ経済を回復させたのは第2次大戦の軍需景気だった。工場労働者が戦場に駆り出されたため、主婦など女性が工場で働くようになった。1945年の終戦で兵士が戻ってくると、元の職場には女性労働者がいたが、多くは働き続けることを希望したため労働力供給が増え、軍需も減ったため賃金が大幅に下がり、アメリカ経済は再び低迷し始めたのである。

これを解決するためにアメリカ政府はソ連との冷戦を開始した。同盟国のためにドイツと戦ったソ連を、戦争が終結してわずか2年後に敵と見なしたのだった。アメリカの軍需産業はこれで復活したが、労働者の賃金を上げるには不十分で、この頃からアメリカでは共働きが固定化した。

アメリカの多国籍企業がグローバル化に目をつけたのもこの頃だった。海外市場で製品を売り、人件費の安い国へ製造拠点を移転し始めた。アメリカ国内の雇用はさらに減少し、内需も悪化するという終わりのない下方スパイラルに陥ったのである。日本企業はこのアメリカのやり方を取り入れたのだった。政府も法改正などを行ってグローバル化を促進した。

国境や、社会や環境に対する規制が取り払われた世界市場で、多国籍企業が好きなように活動できるようにしたのが「グローバル化」であり、フランスの経済学者トマ・ピケティ氏に指摘されるまでもなく、それが日本に広がる経済格差の一因となっていることに、そろそろ気づくべきであろう。