本コラムではニューヨークのエコノミスト、マイケル・ハドソン氏に投稿を依頼し、米国の帝国主義的な金融政策がいかに日本を滅ぼすことになったかを説明してもらいました。2回にわたり、その論文の冒頭部と結論部の抄訳をご紹介します。
米国はいかにして日本を滅ぼしたか(前編)
マイケル・ハドソン
はじめに
1985年9月22日ニューヨークのプラザ・ホテルで、当時大蔵大臣だった竹下登以下日本の高官は、日銀を含む日本の投資家に米国の貿易赤字の資金援助を行うよう働きかけることにより、日本経済を歪めることに合意した。この取り決めは、金利を引き下げることによってドルの為替相場を支えることを日本に命じるものであった。日本が輸出で稼いだドルを円に換えるのではなく、米財務省債券に投資させることによって中央銀行の言う「ドルの環流」を刺激することが狙いであった。日本人は余剰ドル(日本の貿易黒字)を円に換えて日本国内(および海外の新しい生産施設)に投資するのではなく、そのドルを米国へ融資するよう求められたのである。
そして米国高官は、もしこの要請を日本が受け入れなければ、円に対するドルの価値を引き下げると脅かした。ドルの価値が下がれば、海外における日本製品の価格が上がり、日本の輸出業者が苦しむことになる。また米国や他のドル地域(カナダやラテン・アメリカ)に日本がすでに投資した円換算の投資価値も目減りしてしまう。
そこで日銀は、価格の高い(すなわち、金利の低い)財務省債券を購入したのだ。その結果、円に対するドルの下落は食い止められ、さらに米国の財政赤字に資金が援助されるという副次効果もあった。それによって日本国内では低金利と簡単な貸し付けによって、また米国では日本からの資金流入が低金利につながったことが大きく影響し、両国内で金融バブルが膨らんだ。こうして日米は1980年代後半、バブル経済へ突入したのである。
日本人投資家が1985~1991年に購入したドル建て債券は、利子も元金もドルで支払われたため(現在、財務省債券の購入は当時を上回る勢いで再燃しており、米国では新しいバブルにつながっている)、円換算による価値は目減りしている。米国人自身は財務省債券は購入せず、米国の株式や不動産市場で儲けていた。金利を意図的に低く抑えることによって、日本と同様米国市場も活性化した。しかし米国の場合、日本がその要請に従ったがゆえの活況だった。結局、日本の大蔵省は自国の経済に低金利の貸し付けをあふれさせただけでなく、米国の金利を低く抑えるために米国経済へも巨額の資金を流出させたのである。
米国にとってはまさにこれがプラザ合意の目的であった。当時は健全であった日本経済は、不健全な経済への資金援助のために、自国の経済均衡を犠牲にするよう求められた。インフレを誘発する米国経済が均衡を保てるよう、日本の通貨制度を不安定にして米国と釣り合わせることを要求されたのである。この「釣り合い」と「均衡」は、不健全な経済を健全にするのではなく、健全な経済を同じように不健全で不均衡でインフレ過剰のものにすることによって維持されたのである。
これを実現可能にしたのが日本であり、その結果、日本は深い痛手を負った。当時の米国はレーガノミックスによって、巨額の財政支出にもかかわらず富裕者の税金は削減され、貿易赤字と財政赤字が増加するにもかかわらず金融緩和策が取られ金利は下げられていた。この後に続いた通過供給量の増加と産業の空洞化はさまざまな問題を引き起こしたが、その治療をするよう求められたのは米国民ではなく、日本だった。日本はプラザ合意で米国の抱える双子の赤字に資金援助を行うことに応諾したのである。この「治療」こそ、バブル経済で知られる状況である。
日本がこれを受け入れた動機は、ドルを救済することによって、円の価値が経済原理に合わない程高いレベルに押し上げられることを避けるためであった。米国の金融侵略に屈した日本の大蔵省は、日本経済を膨張させることに合意した。日本の金利を低く抑えることで新たな信用の創造と米国への継続的な投資流出に拍車がかかったが、経済不均衡の原因が米国側に存在する中で為替レートを安定させようという努力は焼け石に水だった。日本の低金利によって生まれた余剰の流動性によって、不動産投機家は借り入れコストが削減された。この意図的に刺激された借金と投資は国際的な現象となり、日本と同じ金融バブルが米国にももたらされた。
米国の金融バブルを日本のバブルが資金的に支えることは、もちろん長続きしなかった。事実、それは自殺行為に等しく、プラザ合意から10年以上たった今、円の為替相場を抑えるために取られた金融緩和という破滅的政策は、日本に少なくとも5,000億円の損失をもたらした。銀行から借金した日本の投資家は賃貸収入では追い付かない程に土地価格を高騰させた。そればかりか、彼らは米国の巨大な資産を次々に買収し始めた。最も巨額な投資がロックフェラー・センターとペブル・ビーチのゴルフ場で、どちらも高値をつけすぎたため、いざ買い手がそれを手放した時には莫大な損失を被った。
しかし最大の損失を被ったのはこのような投資家ではなく、家を購入したくても手が出なくなった一般家庭や、多大の借金をして不動産を購入した人達、さらには、金を貸し付け、バブル崩壊後その担保では負債を補填できなくなった銀行であった。日本の不動産および金融業界は、米国の要求を満たすために結局自分達が犠牲になったのである。
このような損失は経済的な本質や景気循環とは違い、必然的なことではなかった。驚く程近視眼的な大蔵省の失策が招いた結果によるものなのだ。「米ドル救済」のためのバブル政策は日本だけでなく米国にも悪い結果を招いた。この政策は、日本の大蔵省当局と自民党が、米国の金融外交団に言われたままのことを実行したに過ぎない。
ここで1985~1991年の日本のバブル政策が米国製のものであるという実態を暴露すると同時に、米国が日本の金融当局に自殺行為を要求し、大蔵省と日銀がそれを快く受け入れたことについて検証したい。
プラザ合意のお膳立て — 金本位制に代わる財務省債券制
米国当局は日本の高官に対して、ひどい選択を迫った。日本が輸出を続け貿易黒字を拡大させればドルはさらに下落し、日本の輸出業者は製品価格高騰により製品が売れなくなるという憂き目に合う。これに対して日本に残された唯一の解決策は、財務省債券を購入してドルを環流させることだと米国外交官は迫ったのである。
なぜこの時日本はドルを支える必要性を感じたのか。この答えは、米国人がいかにして自国の貿易赤字を他国に支払わせることができたかの理由にもなる。貿易赤字を抱えていれば、通常は消費や投資の抑制、さらには歳出削減や富裕者、特に不動産投資家への増税を行う。そのために景気は減速する。では、米国はいかにしてこれを回避したのか。
ドルの環流政策がとられ始めたのは、米国が金本位制を廃止した1971年であった。ベトナム戦争で米国は海外に莫大なドルをばらまいていたため、世界中の中央銀行が米ドルを1オンス35ドルで金に交換し始めた。しかし、日本のように国際収支が黒字の国は、継続してドルを受け取っていた。例えば、ベトナムのアメリカ兵が休養と娯楽のために日本に送られると、米国は日本で使うために何十億ドルもの米ドルを円に交換した。この間の米国経済は、消費財ではなく、いわゆる「ペンタゴン資本主義」とも言える武器製造に集中した。原価に所定の利益を加算する原価加算方式によって、企業の経営者は製造費用をできるだけ高くし、価格にそれを反映させて儲けたため産業界は豊かになった。
これは市場競争にとって良い経験とはならなかった。コスト削減意識が培われなかったためである。政治制度もまた、ベトナム戦争とそれに関連する軍事支出に反対する多数の団体を買収することで成り立っていた。このような状況下で米国の消費者は急速に、自動車や電化製品などを海外のサプライヤーから購入するようになっていった。
日本のメーカーは使い道のない余ったドルを日銀で円に交換し、その円を生産設備の拡充や住宅その他の投資に使った。日銀は集まったドルの使い道を決めなければならなかった。
フランスでは、ドゴール将軍が余剰ドルを毎月金に換えていた。しかし敗戦の痛手から抜け出せなかったためか、日本は他の主要国に比べて金の保有高を少なくするよう圧力をかけられた。つまり、余剰ドルを米国保有の金、さらには公開市場でも金に換えないように要請されたのである。
したがって、日本の輸出業者やその他のドル受領者が稼いだドルのうち、輸入や米国への民間投資に必要な分を除いた余剰ドルを日銀はどうすることもできなかった。唯一残された選択肢は、日銀がドルを外貨準備金として、財務省債券の形で保持することだけだった。このようにして米国の対日貿易赤字は、日銀を経由して米国の財務省に環流していたのである。(このプロセスの詳細は、SuperImperialismとGlobal Fracture: The New International Economic Order(2章)で触れた。)
もちろん通常は、貿易赤字を抱える国はなんとかしてそれを埋める資金を作り出さなければならない。そのために米国が1971年まで取っていた方法は金を売却することだった。しかし、1971年には米国政府の金保有高が底をつきはじめた。海外の中央銀行が余剰ドルをすべて金に換えれば、米国の金は完全になくなっていたであろう。
米国はすべての代替案を検討した。貿易赤字を埋める伝統的な方法は借金である。専門用語を使えば、資本勘定を黒字にすることである。そのためには海外から資金を集めるために米国の金利を引き上げ、さらに米国の民間投資家が外国債券や株、外国にある不動産、直接投資を売却する必要がある。またこれに関連した政策として、米国政府自らが外国銀行、外国政府や国際通貨基金(IMF)を含む融資先に対して負債を増やさねばならない。
1971年以前は、中央銀行が借金をするのは比較的簡単であった。国内の金利を引き上げるだけでよかったのである。しかし、米国はこの選択肢は取りたくなかった。そのため米国の政治家は、海外での軍事支出や国内産業の空洞化、さらには財政赤字の結果、当然とも言える経済的代償を支払わなくて済むような打算的な決定を行った。政治家は、金利引き上げは1960年代のベトナム戦争で潤っていた米国企業の経営状態に水を差すことになると考えた。当時、国外では冷戦を目的に事を進める一方で、国内では歳出を増やせばどの階級も戦争支持へ買収できると考えられた時期だった。
米国の高官はこれまでどの国も行わなかったことを実行しようとした。それは、シカゴ大学を中心とする通貨主義者が実際には存在しないとし、それについて議論さえされなかった「フリーライド(ただ乗り)」や「フリーランチ(ただでもらえるもの)」と言われるものだった。米国の高官は、国内景気を刺激するために金利を低く抑えたかった(その結果、現職政治家が再選されることを望んだのである)。
ドゴール将軍や外国の政治家が、自分達の経済が搾取されていると主張すると、米国は自国の高官たちが第三国や赤字国に対して長年指図してきた行動を自分たちがとるよう言われることで、搾取されるのは自分たちの方であると思い込み、反仏に翻った(これはその後米国が反日になるのと同じである)。米国はIMFの緊縮経済政策は行わない。それは外国に聞かせるのが目的の経済理論だったのだ。
米国は違う選択をした。金利を上げて民間部門を外国資本に引きつける(つまり、米国人が外国で企業買収するのと同じように、米国企業を外国投資家に売却する)のではなく、日銀(および日銀に比べると圧力は弱かったもののドイツのブンデスバンク)に余剰のドルを財務省債券に投資するよう働きかけたのだった。財務省債券の利率は当時の市場の状態(およびその後のドル安)を考えると低かった。日銀がこの財務省債券で手にした金利は、主に日銀と自民党の寛大さによって可能になった米国の海外直接投資で米国投資家が稼いだ金利よりずっと少なかった。
こうして、貿易収支を埋める資金調達のために米国が金利を上げるのではなく、日本が金利を下げることによって、経済水準よりも低金利であったドル建て債券に投資を促すような状況が人工的に作り出された。つまり日本は、米国への民間投資は儲かるという幻想を抱かせるためだけに、日本全体の経済を歪めたのである。米国の外交官が日本の高官に圧力をかけたのと同じように、日本の高官は日本の民間投資家に米国へ投資するよう働きかけた。こうして投資熱が喚起され、日本の投資家はロックフェラー・センターやペブル・ビーチなどの子供だましの投機で大損をしたのである。
貿易黒字を利用した日本の「資本流出」は様々な形で環流した。日本の外貨準備金を通した政府レベルの環流もあれば、意図的に低く抑えられた金利(現在日本の公定歩合は0.5%に抑えられている)に喚起された民間レベルの環流もあった。
このように日米相互に壊滅的な経済を作り出すことになった裏には、ありきたりの目的があった。米国では共和党候補者の再選を助けること、日本では大蔵官僚と自民党政治家の野望を達成することであった。このため金融当局は、日米両国でのバブル現象が経済の歪みではなく、新世代の繁栄の本質であるかのように装った。しかし、実際には日米両国の経済状況は歪んだものとなった。当初利益になると考えられていたことが、実際には損失となったのである。
この過程において経済学者が警告を発しなかったとすれば、それは経済学そのものがとるに足りぬ、歪んだものとなっていたためである。もはや実際に起きていることを細かく検討したり、「裸の王様」(ここでは米国とレーガノミックス)に衣服を纏っていないことを伝えることは、「政治的に妥当でない」ことになった。学問分野は極めて偏狭になり、経済の中には負債の諸経費が組み込まれている、という最も重要な現象について話し合うカリキュラムが含まれていない。さらには、「米財務省債券」本位性という新たな国際金融制度がいかに搾取的な制度かということも見逃されている。
このような問題に日本が再度直面した時によりよい解決策を提供するために、次にプラザ合意とその後のルーブル合意(1987年)についてまとめてみる。日本の官僚や政治家が、外国の政治家に協力して財務省債券の形でドルを無限に購入し、新たな金融バブルを生み出すよう要請を受けた場合(事実、今も、1985~1991年のように経済を再度膨張させることが求められている)、いかにしてそれを避けるべきかという教訓がここから得られれば幸いである。