No.318 ベンチャーは精神の狂乱

今回のOWメモでは、株式会社秀明出版会より発行されている『発言者』(1999年9月号)の中から、主幹編集者である西部 邁氏の記事をお送りします。“アントレプレナー”、“企業家”という言葉がもてはやされている昨今ですが、西部氏はベンチャー・ビジネスの危険性を説いた上で、バブル崩壊後の今こそ必要なのものは企業内部の独創性や判断力であると結んでおられます。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

ベンチャーは精神の狂乱

西部 邁
『発言者』1999年9月号より

 リストラクチュアリングとは「再び構造化すること」である。それをリストラと約めるのみならず、それに「首切り」の意味を与えたのは、アメリカの風に吹かれていれば気持ちよいと感じる敗戦属国人の悲しい性というべきであろう。

 「首切り」の嵐が吹き荒れたとて、アメリカニストたちは、ベンチャー・ビジネスが簇生すれば失業者を吸収できる、と強気でいる。堺屋経企庁長官が「知恵ある時代」を推奨するのも、ベンチャーの知恵を期待してのことに違いない。

 しかしベンチャー精神による「起業」のことを喧伝するのは、詐欺でないとしたら、向こう見ずにすぎる。というより、ベンチャーとは「向こう見ず」のことを意味するのである。百人に一人くらいは向こう見ずがいるのは世の常であろうが、百人が百人、向こう見ずで業を起こしましょう、などといいつのっている社会は知恵から完全に見放されているのではないか。

 もちろん、ビジネスには「危険を賭する精神」が必要である。しかしそれについては、エンタプライズ(企業)とかアントラァプラナシップ(起業家精神)といったような熟語がすでに用意されている。つまり、大きな独創性や判断力がなければビジネスは開始できない、というより独創と判断においてビジネス(多忙)をきわめるのがビジネスマンだ、ととうに認められている。

 こと新たにベンチャーというからには、それは、「向こう見ず」といわれて致し方ないような、冒険精神のことをさしているのであろう。そして良識あるものは、向こう見ずを知恵のうちに含めないのである。逆に知恵とは、歴史的に形成され来たった良識を現在において活用する仕方のことだ。歴史的良識としての知恵、そこから豊かな独創性や判断力が生み出されるということである。

 ベンチャー・ビジネスが称賛されるような時代はけっして「知恵ある時代」にはなりえない。むしろ知恵をなくしたものだけが向こう見ずの態度に出るのであり、そういう連中のなかから大金をつかむものが出てきたとて、その背後には、厖大な数の大金を失った野心家たちがいることを忘れるべきではない。どだい、政府の大臣たちや民間の首領たちが、「向こう見ず」の精神に賭けよ、と国民に向かって呼号したり怒号したりするような時代は下品この上ないではないか。それは精神の、そして言葉の、バブル以外の何ものでもありはしない。そういうバブルは、歴史不在の国・アメリカに任せるべきで、歴史の恩恵のうちに生きてきた吾らは、もっとまともな精神と言葉で日本のリストラ(再構造化)を図らなければならない。そしてそのまともな態度の第一歩は、「企業」という言葉それ自体のうちに、独創性と判断力を重んじるという意味が込められている、と知ることである。

[許可を得て転載]