1995年9月の少女暴行事件に端を発した、沖縄の米軍普天間飛行場の移設問題について、稲嶺恵一/沖縄県知事がその代替施設の建設候補地を「米軍キャンプ・シュワブ水域内の名護市辺野古沿岸域」にすると、11月21日に発表しました。また政府は12月17日、沖縄県の要望をほぼ全面的に受け入れ、沖縄本島北部地域の経済振興対策費として今後10年間で1,000億円の投入、新たな沖縄振興法の制定、代替施設の使用協定の締結などを実現すると発表しました。名護市では1997年12月、政府の海上ヘリポート建設計画の是非を問う市民投票で、過半数が「反対」の意思表示をした経緯があります。それにも拘らず稲嶺知事が名護市を候補地とすると発表し、また政府が沖縄県の要望を全面的に受け入れることにしたのは、2000年7月に開催される沖縄サミット前に、この問題を解決し米国の機嫌を取りたいためであると私は考えます。
日本政府の経済振興策と基地移転を結び付けるやり方に対し、以下の記事で、日本政策研究所所長のチャルマーズ・ジョンソン氏は、沖縄県、そして名護市は再び中央政府に裏切られるであろうと予測しています。名護市が市内に基地建設を認め次第、政府はその約束を反故にするであろうと記しています。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。
また裏切られた沖縄
チャルマーズ・ジョンソン
『ジャパン・タイムズ』紙 1999年11月29日
1999年11月21日、沖縄県の稲嶺知事は、すでに39もの米軍基地を沖縄に抱えながら、さらにもう1つの米軍基地を人口5万5,000人の貧しい小都市、名護市に建設すると発表し、同市にそれを受け入れるよう要請した。これは米軍による沖縄の半永久的な軍事植民地化を狙った、米国防総省と日本の自民党の5年間にわたるキャンペーンの最新の動向である。稲嶺知事の提案は沖縄に対する裏切りであると同時に、沖縄県民を真の圧制者に対し一致団結させるのではなく、内部分裂させ対立させることを狙ったものである。
米国軍人は沖縄駐留を好む。沖縄にある将校クラブや設備は、米本国のものより快適だからである。これは、旧東ドイツにいるロシア軍と同じように、「やるべきことは大してないが、本国には帰りたくない」という状況に等しい。また日本側も沖縄の米軍駐留を望んでおり、それは米軍駐留を受け入れてさえいれば、米国市場への特権的アクセスと年間1,000億ドル以上の貿易黒字が保障されると信じているからである。
日米の同盟関係は、日本の国土に米軍を駐留させ続けることと引き換えに、米国側が日本の保護貿易主義や略奪的な貿易慣行を容認するという交換条件の上に築かれている。さらに、日本本土にいる日本人から見れば、本土が冷遇し続けてきた沖縄に米軍が駐留している限り米軍が日本の国土に駐留していることにはならない。
1995年9月4日の少女暴行事件により、米軍が130万人の沖縄県民の生命や環境にどのような影響を与えてきたかに米国人は気づかされ、普天間の海兵隊航空基地の返還を申し出るよう説きつけられた。しかし、この普天間基地返還の提案には沖縄県民にとって不利な条件がついていた。米国側は日本国内に代替の飛行場を要求し、日本政府側はその移転先として本土の日本人を動揺させかねない国内ではなく、沖縄県内に限定することを決定した。
そこで政府は自民党の息のかかった稲嶺知事に、小さな貧しい名護市、厳密には「米軍キャンプ・シュワブ水域内の名護市辺野古沿岸域」を選択させた。ベトナム戦争中、シュワブには200~300軒の売春宿やバーがあり、騒音や事故、環境破壊がひどいことで知られていた。キャンプ・シュワブには今もなお海兵隊員やその関係者が約3,000人駐留しており、ここにさらに飛行場が新設されればその人数も倍増するであろう。
名護市に新しい基地を建設する案は、沖縄駐留米軍の削減を狙って当時の橋本首相とクリントン大統領の間で交わされた1996年4月の合意内容をもちろん満たしてはいない。名護市が沖縄県の一部であるというだけではなく、名護市民が海兵隊の空港移設に反対した。名護の沖合いにある広大な珊瑚礁はジュゴン(海牛のような海洋性哺乳動物)の生息地となっており、このジュゴンは18世紀、ヨーロッパの船乗りによって人魚と間違えられ、今では国際法で保護されている動物である。さらに名護市の海岸は、絶滅の危機に瀕したウミガメの産卵場所でもある。名護市に古くから住む市民は、1960年代、1970年代に、近くの海兵隊基地で騒音、環境汚染、軍事事故、婦女暴行が頻発していたのをよく覚えており、それらがまた戻ってくることを望んでいない。
名護市の地元経済は衰退しており、当時の橋本政権は投票者の過半数がヘリポート建設に賛成すれば、名護市に有利な建設契約や他の経済的メリットを提供すると約束した。また橋本政権は、名護市のヘリポート建設が否決されれば「何も変わらない」、つまり普天間基地が平和的発展のために沖縄に返還されることはないとして名護市民を威嚇した。こうして、橋本首相は沖縄の人々を賛成派と反対派に分裂させることに成功し、その結果、前大田知事は県民に対して中立的な立場をとらざるを得なくなった。
1997年12月21日の住民投票前の数週間、沖縄に駐在あるいは沖縄出身の自衛隊員は、名護市の家々を回ってヘリポート支持を呼びかけるよう指示された。さらに住民投票直前の週末には、当時の久間防衛庁長官自ら名護市を訪れ、有権者に対し熱弁をふるった。さらに投票操作を狙って、住民投票では通常は2つの選択肢しかないところ、4つの選択肢が提供された。その4つの選択肢とは以下の通りである。
1) ヘリポート建設に賛成
2) ヘリポートの建設に反対
3) 約束されている環境汚染防止や経済措置により地域が利益を得るため、建設計画に賛成
4) そうした利益が提供される可能性は低いため、建設計画に反対
実際の投票では、この戦略が裏目に出た。投票率80%の名護市の住民投票は、次のような最終結果になった。
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1) 2,562票 3) 11,705票 賛成合計 14,267票 (46.2%)
2) 16,254票 4) 385票 反対合計 16,639票 (53.8%)
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つまり、ヘリポート建設に反対した住民は、いかなる経済的な誘惑にも影響されず反対し、一方で賛成票を投じた者は圧倒的に賄賂に動かされての賛成であった。賄賂に影響されず建設そのものを支持しようという名護市民は約2,500人しかいなかった。
この住民投票後、自民党は大田知事に代わって、自民党県連が推薦する稲嶺氏を沖縄県知事に当選させることに成功した。稲嶺氏は1998年11月の選挙では、大田氏にできるだけ近い立場をとったものの、東京の自民党との関係で大田氏よりはるかに多くの資金を中央政府から引き出せると強調することで、僅差で大田前知事を破った。しかし稲嶺知事、そして沖縄県民は残念ながら、1996年の日米首脳会談の合意が実現せずに裏切られたのと同様に、再び日本の中央政府に裏切られることになるであろう。自民党は名護市民に対し新しい基地を軍民共用とすること、2000年7月のG8サミットの名護市開催、環境破壊の防止など、多くの利益を約束した。
しかし、名護市民および沖縄県民がいったん名護市に普天間飛行場を移設することを認めてしまえば、名護市に対する様々な利益の提供は中止となるであろう。米国人はすでに、新しい基地を民間と共用することや、沖縄県への返還時期を予め設定することに反対している。またクリントン大統領は、大々的に報道されるであろう大規模な激しいデモに遭遇することになる沖縄でのサミット開催も望んでいない。そのためすでに米国側は、台風や警備に対する懸念を理由に、サミット開催地を東京に変更させる準備を進めている。米国の覇権主義の従順な下僕である日本政府は、おそらく米国側の提案に従うであろう。
最終的には、1972年の沖縄返還と同様、直接的な米軍支配から見せかけの日本統治に変わるだけで、圧倒的な米軍の存在は変わらないであろう。たとえ名護市民が自分達の土地を接収されることになる普天間飛行場の名護市移設計画を拒絶し、自民党寄りの市長の解職を請求したとしても、普天間の海兵隊航空基地が今まで通り残るだけである。そしてそれは、海兵隊による少女暴行事件によって基地返還を余儀なくされて以来、米国側がずっと望んできたことなのである。
※ チャルマーズ・ジョンソン氏は、日本政策研究所の所長である。近々、Blowback: The Costs and Consequences of American Empire”の邦訳が集英社から出版される予定である。
[著者の許可を得て翻訳転載]”