No.448 デミング博士が日本に教えたこと

私はかねてから、日本人は、日本が成功していたときの考え方に戻るべきであると主張してきました。日本の成功を語る時、日本人が必ずといってよいほど持ち出すのが、戦後の経済復興の原動力をもたらしたとされる品質管理の第一人者、故W・エドワーズ・デミング博士による教えです。私はデミング博士が日本人にどのようなことを教えたのか以前から興味を持っていましたが、米国人の彼が日本人に教えたことは、米国では根付かなかった協調の考え方、つまり「和」の精神だったのです。以下、ウォルター・ラフェバー著、『The Clash: A History of US-Japan Relations』より、デミング博士の考え方を記す部分を抜粋しますので、彼が日本に何を教えたのか、もう一度確認していただければと思います。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

デミング博士が日本に教えたこと

ウォルター・ラフェバー著
『The Clash: A History of US-Japan Relations』より抜粋翻訳
 

 W・エドワーズ・デミングの経営哲学によると、生産はひとつの完全な組織と見なされる。この組織では、最も優れた(必ずしも最も多くではない)製品を生産するために、企業内の全社員の完全な協力(競争ではない)が必要とされる。デミングは、企業方針は最高経営者の見解ではなく、顧客が何を望んでいるかを出発点に考えるべきだといった。そして顧客が望むものとは、信頼できる品質につきるとデミングは確信していた。1950年に日本にデミング博士を招聘した日本の科学者および技術者の組合は、彼の主張がいかに重要かを理解していた。デミング博士の8日間にわたる第一回目のセミナーには、企業の役員を含め200人以上の日本人技術者が参加した。デミングは、市場から長期的に利益を生むには、品質の高い製品が必要だと強調した。1951年から、日本は優れた製品を作り出した企業に、栄誉あるデミング賞を授与し始めたのである。

 日本企業を相手に闘う米国企業が、日本の高度成長を見て彼の話に耳を傾けざるを得なくなる1970年以降までは、デミングは本国米国ではほとんど無名だった。1900年アイオワ州で生まれ、ワイオミング州で育ったデミングは、開拓時代末期の経験から、協力によってもたらされる、誰にとっても有利な状況(彼が好んで使ったWin-Winの状況)の重要性を学んだ。しかし、米国企業が強調したのは競争であった。米国企業が世界の頂点に立てるのも、熾烈な競争という米国の伝統があるからこそだと彼らは信じた。当時、戦時中に閉鎖されていた累積需要と冷戦時の軍事調達の急増によって、米国企業には無限の市場が保証されているかに思われた。その需要を満たすために、米国の経営者たちは、1900年代初期のフレデリック・テーラーによる時間と作業能率との相関調査に基づく大量生産を強調した。それは生産過程を無情にもバラバラにし、個々の生産部門を強調して圧力をかけるものであった。

 デミングは、テーラーのこうしたやり方を非難した。テーラーの科学的経営管理は品質よりも生産量を重視し、また個々人が全生産体系の重要な要素であることを見落としているとデミングは信じていた。また、社員同士を対抗させるとして能力主義をけなした。デミングが中でも特に重視したのは長期的展望であり、1年後、5年後、10年後はどうなるのかを見据えることが大切だと主張した。このアプローチをすぐさま採り入れたのが日本企業であった。これに反して米国企業のほとんどは、四半期毎、あるいは半期毎の損益報告に固執した。

 加えて日本企業は、工場長を経営の意思決定に参画させることを提唱したオハイオ州クリーブランドの経営専門家、ローウェル・O・メランの考え方を採用し、デミングの理論を実践に移した。さらに終身雇用、年功序列賃金、労使協調といった新しい制度の導入によって、日本の生産性は急増した。

 日本の労使関係は、米国のそれに比べると奇異である。日本は安定を約束する終身雇用、労働者の確保につながる企業内労働組合、破壊的な労働者間の対立を終わらせる年功序列賃金、そしてデミングの手法が要求した最大の協力を重視した。また年度末の賞与制度によって、社員に企業の利益に関心を持たせると同時に、リスクを所有者だけでなく社員へも分散させることにしたのである。

 米国で、日本のデミング賞に相当するマルコム・ボルドリッジ全米品質賞が授与され始めたのは1987年で、高品質の日本製品が世界市場で多くの米国製品を凌駕している時であった。