No.743 日本人としての生活に喜び

私事になるが、このたび日本に帰化し、日本国籍を得ることができた。

日本人としての生活に喜び

昭和44年に28歳で日本へ来てから38年、以前手続きを試みたときは、日本のような戸籍制度のない米国から両親、兄弟関係を証明する書類をすべて集めることができなかった。今回あらためて申請をしてスムーズにいったのは、どうやら規制緩和のおかげらしい。

最初に国について考えたのは昭和52年、子どもの教育を考えたときだ。治安などの環境や価値観、そのほかさまざまなことを比較して、私は子供たちを日本で育てたいと思った。それと同時に、日本という国を、販売しているコンピューターソフトウエアの市場としてではなく、社会や国家としてみるようになった。

日本を「自分の国」として考えるようになったのはそのころからである。しかしまだ当時は、米国で生まれ、育ち、教育を受けた私にとって母国は米国であり、帰ることはないにしてもパスポートを捨てる決心はできなかった。

それから十年強が過ぎた。その間に日米貿易摩擦が悪化し、米国が不公正な貿易慣行・障壁を有すると疑われる国に対し、交渉しても改められない場合には報復措置をとるというスーパー301条を日本に1989年に適用した。私が米国政府にあてて「緊急提案書」を書いたのはその翌年である。

それは、日本市場に受け入れられる努力もしていないにもかかわらず、日本市場を閉鎖的だとする米国政府への反論であった。日本が本当に閉鎖的なら、私のような「ガイジン」が日本で起業し、コンピューターソフトウエアを売ることができるはずはない。

私の意図は批判ではなかった。米国企業に、日本の顧客に合わせた製品の改良や、ただ単に業績の数字ばかりを追うのではなく、顧客の求めている品質やサービスを提供してほしいという思いから書簡を送ったのである。日本には日本のやり方があり、それを一方的に間違っているとして米国流儀を押し付けるというのは、いかにも米国的なやり方だと、米国を客観的に見るようになったのもそのころからだった。

私は平成の日本人が捨ててしまった日本の価値観が好きである。なぜならそれが、私が日本に来てビジネスを始めたときに手本とした、日本を高度成長時代に導いたリーダーたちの価値観だからだ。そしてそれは日本人の多くが劣っているとみなしていた「江戸時代」に主流だった価値観である。江戸時代が長いこと続き成功した理由の一つは、自然神道(明治神道ではない)や道教、儒教や仏教が混ざり合って出来上がった武士道ではなかったかと私は思う。

米国政府に書簡を送ってから15年以上がたったが、日本はますます武士道から遠くなり、日本自身が米国のようになっていった。そして米国企業のように、顧客や市場のニーズよりも株主や業績の数字が大切であることを公言してはばからない日本人経営者がもてはやされる国となってしまった。

ではなぜ米国のような、いや、米国の属国と自ら呼ぶ国の国籍を取るのかといわれるだろう。

私の家族も友人も、仕事仲間も、過去38年間に私が出会った日本の人たちである。私は彼らと暮らし、共に楽しみ、これからも一緒に悩んだり苦しんだりしたいと思う。武士道精神が失われたとはいえ、私の接する多くの日本人は大部分の米国人よりも親切で、他者に対して思いやりがあり、協力的だ。他者に一方的に自分の意見を押し付けるのではない、最初は理解しにくかったやり方がだんだん分かってくるにつれ、それがあいまいさからくるのではなく、相手を尊重する思いやりからきていることに私は気付いた。余生を過ごす国はやはり日本以外考えられない。たとえその政府が、米国の政府や財界にへつらって、BSEの心配のある牛肉を国民に押し付けようとしたとしても、日本が私の国だと思ったのである。

私は南カリフォルニアで生まれ、育った。近くに川も山もない、砂漠のような土地であり、一年中季節は同じだった。だから日本に来て、初めて四季を経験したときは感動的だった。移り変わる風景、温度や湿気、季節ごとに違う香りがもたらす刺激。季節ごとにすべき行事があり、食卓には「旬のもの」を味わう楽しさがある。日本に生まれ育った人々には、これらはすべて当然のことかもしれない。当然すぎるからこそ、人々はそれが人間の感情や、人と人、人と自然のかかわり合いにとっていかに大きく影響しているかを見逃してしまったのかもしれない。鴨川の流れ、上空を舞うトンビ、百日紅が咲き誇る暑い午後、私はこの恵まれた国に日本人として生活することに喜びを感じている。