No.12 日本は変わった

私は、オウム真理教の問題は日本社会の腐敗と崩壊を示す1つの兆候に過ぎないと考えている。人はオウム真理教の信者に優秀な若者が多いことに驚くが、私にとってそれは驚きでもなんでもない。人間は誰もが、若者ならばなおさらのこと、道徳的、精神的な拠り所を求めるものだからである。将来への希望、社会の公平さに対する信念、そして行動規範となる価値観、指導者への信頼感を必要としている。私は日本の歴史に詳しくはないが、これまで日本にはそんな希望や信念、価値観、信頼感が存在していたと思う。少なくとも私が日本に移住してきた25年前には、確かにこのような心の拠り所となるものがあったようだ。しかし今はどうか。

私が日本に来た1969年には、日本という国家、その国民および企業には使命があった。その使命とは戦後の復興に励み、豊かな米国に追いつくことであった。そして誰もが自国の明確な目標を理解し、その目標達成のために果たす自分の義務を感じ、その貢献に対して大きな誇りを持っているように見えた。確かに労働時間は長かったかもしれないが、家族の生活水準を向上し、子孫に自分の代よりも良好な健康状態、高い教育レベルや将来性を提供しているという満足感があった。

今日、国家、国民、企業にはどんな使命があるというのだ。指導者達は国民にどんなビジョンを打ち出しているだろうか。実際、日本に指導者がいるのだろうか。いるとすれば誰なのだろう。日本政府は国家を統率するというより、むしろ米国の植民地を管理しているように思える。日本には外交政策というものがあるのだろうか。曲がりなりにも外交政策といえるのは、米国のご機嫌とりだけのように私には見える。

日本政府は未だに半世紀も前の戦争を謝罪し続けている。過去の戦争に対してこれ程長い間罪の意識を引きずっている国が他にあるだろうか。米国では、国民を欺きベトナム戦争に駆り立てた元国防長官のロバート・マクナマラが、回顧録の中で、ベトナム戦争は過ちであったと告白した。超大国の米国がこのちっぽけな後進国を第二次世界大戦以上の規模で爆撃し、1週間に千人以上の死者や不具者を生んだあの戦争は過ちだったと認めたのだ。しかし、32年前に終結したこのベトナム戦争について米国が謝罪したことがあっただろうか。もちろん一度もない。それどころか、今回はクリントン大統領がこのマクナマラの告白を、自らの徴兵逃れの臆病な態度の弁解に利用したのである。さらにクリントンは、広島と長崎への原爆投下についても「全く正当だった」とし、米国が謝罪する必要はないと言って日本国民を侮辱した。これに対し、日本政府は「問題がエスカレートすれば日米の絆に傷がつく」として抗議さえ行っていない。これでは学校でいじめに遭っている生徒が、いじめっ子の言いなりになっているのと同じではないか。

米国に対する日本のこのような態度は半永久的に続いている。巨額な対米貿易黒字の削減のためだと言われれば、米国からの政府、経済、社会制度などの変更要求に次から次へと屈服している。しかし実際には、対米貿易黒字など存在せず、二国間の貿易は均衡がとれているのである。米国の貿易統計には、米国企業の都合で米国以外の国で製造され(米国は海外で販売する製品の86%は米国の外で製造している)、日本に輸入された製品は含まれていないからだ。そのために、日本人が日常的に、米国製品として好んで購入している飲料水やクッキー、ジーパンからコンピュータ、そして自動車までがその統計には全く含まれていない。米国は貿易不均衡を訴えるが、その主張自体、このような事実に反する貿易統計に基づいた間違ったものであることに、日本政府は全く気づいていないのであろうか。それとも知ってはいるが、臆病からかまたは腐敗しているために、米国の主張を退けることができないのだろうか。

確かに日本人は臆病なのかもしれない。原爆投下に関するクリントンのコメントに対して抗議できないのと同じである。湾岸戦争で米国の言いなりに130億ドル支払ったのと同じ臆病さである。腐敗というのももっともらしい理由だ。日本の官僚に賄賂を支払ったり、ひいきの日本人政治家に選挙資金を援助したという米国政府の告白を、日本のマスコミがほとんど話題にしなかったのには私も驚いた。独立国家でそのような金を受け取るのは反逆罪であり、死刑になりうる大罪である。日本のマスコミや国民がそれを問題視しないということ自体、自分達が日本を独立国家というよりむしろ米国の植民地と捉えていることの証拠ではないだろうか。植民地であれば、統治国が植民地の管理者に賄賂を支払って、植民地の住民よりも統治国の利益を優先した管理をさせるのはごく当たり前である。そんな愚かで根性のない腐敗した政府を、国民がどうして尊敬できよう。日本人が本当に尊敬し、信頼できる政治家またはトップ官僚は何人いるだろうか。こんな状況下、国民が麻原彰晃のような人物にリーダーシップを求めても全く不思議はない。

公平さについてはどうだろう。日本の犯罪件数の少なさは私も高く評価している。そして警察の検挙率は非常に高い。ではなぜその警察や裁判所は、不法な金を得るために自分を売って国民の信頼を裏切るような官僚や政治家、そしてそれら寄生虫に賄賂を送る経営者達には寛容なのだろうか。官僚や政治家、経営者は自分達は脱税をする一方で、共謀して増税を企てる。庶民の犯罪は厳しく罰する警察が寄生虫の犯罪を見逃すような国を、どうして公平だと言えるだろう。そんな国の国民がおかしな宗教へ走ったり、選挙でタレントに投票しても少しもおかしくないのではないか。

政治と同じくらい腐敗しているのが企業である。社会における企業の役割は、社会が必要とする製品やサービスを社会に提供することである。私が日本に来た頃、松下幸之助や本田宗一郎、土光敏夫などが説き、行っていた経営はそうだった。彼らの目標の1つは人々が買いたい商品やサービスを開発することだった。もう1つの目標は人々に職を提供することだった。仕事がなければ国民はそれらのサービスや商品を買うことができないからである。そして企業の真の目標と社会への義務を忘れて利益ばかりを追求する米国の企業家達を彼らは嘲笑していた。今日、日本の経営者はこの松下、本田、土光達をあざ笑い、米国人同様貪欲に利益を追求している。彼らは新技術や新製品の研究開発に投資するよりも、株に投資したほうが早く利益を上げられることを、そして設備投資よりも、不動産に投資した方が手っ取り早いことも米国人から学んだ。また、バブルがはじけて損失が出れば、政府に賄賂を払って税金で救済してくれるように頼むことも米国から学んだ。そして、残りの負債を補填し、さらには利益を上げるために、残業代やボーナスを減らし、終身雇用を止め、人件費の安い海外に工場を移転することなども、すべて米国から学んだのである。

日本が博打熱に浮かれたバブル期の10年間で、日本は台湾、韓国、香港、シンガポールなどのアジアの新興勢力に対する競争力を失ってしまった。1980年代初めまでは、日本にしかない技術や製品というものが必ず存在し、工場や産業基盤は他のアジアよりも日本の方がかなり進んでいた。だからたとえ円の価値が300%上がっても、日本の労働者がこれら諸国の低賃金労働者と競争する必要はなかった。しかし、アジア諸国が研究開発や設備投資をする一方で、日本企業が財テクに明け暮れ、ゴッホやルノアールの絵画や不動産などを買いまくっていた10年の間に、日本とそれらの国々との格差は縮まってしまったのである。

日本がアジア諸国に対して競争力をなくしたのは、最近の円高によるものではなく、財テクまたはバブルと呼ばれた10年間の日本の博打漬けが原因である。そして今、日本の経営者は日本人労働者の職を犠牲にして、博打による損失を補っているのである。利子収入だけで生活できるごくわずかな裕福な人をさらに豊かにするために、生活のために働かねばならない大半の国民を労働資源として搾取し、切り捨てるような社会を、人々はどうして信用することができるだろうか。庶民の働き口は減り、残っている仕事の給料も下がっているような社会で、自分達の将来にどうして期待が持てよう。

このように、無能な政府やその腐敗、企業の貪欲さだけでも、日本の若者は十分悪影響を受けているというのに、家庭は彼らに正しい道徳観や精神的な手引きを提供しているだろうか。母親は駐輪禁止の駅前に自転車を停め、人々の迷惑を省みない。ゴミを平気で電車の座席に置いていくし、子供にキセルを教えている。父親達は禁煙の場所でもタバコを吸い、吸いがらをどこにでも投げ捨てる。社会や他人を尊重するような行動は全くとっていないではないか。その両親を手本としているだけの彼らを「新人類」と呼び、その行動を「近頃の若い者は」と嘆くのはおかしいのではないだろうか。両親からも、政府からもそして企業経営者達からももはや提供されない道徳的、精神的な導きを、若者達が他に求めても全く不思議はないはずだ。

25年前と比べて日本の道徳観念が著しく低下するのを私は観察してきた。25年前日本を率いていたのは、太平洋戦争中かそれ以前に教育を受けた人達だった。彼らは伝統的な日本やアジアの価値観や文化を教えられていた。それは社会から受ける権利を主張するのではなく、社会に果たさなければならない義務を教える儒教の教育だった。特にリーダーは、人を導く立場にあるという幸運に対して、それを自分の利益のために利用するのではなく、その幸運に謙遜と感謝をするようにというものであった。また、自然を尊重し、自然を自分達の目的に合わせるのではなく、自分達を自然に順応させる必要性を説いた道教の教育であった。

そういった人々が亡くなったり、引退したりして、戦後教育を受けた最初の世代に取って代わった。彼らは伝統的な日本やアジアの価値観を捨て、現代のアメリカや西洋の価値観を取り入れた。日本やアジアの伝統は無視または拒否することを教えられた。この東洋社会に西洋の価値観を植え付ける試みは、明らかに失敗であった。数千年続いた伝統や文化を別の国のものと簡単に交換できると考えた彼らは、極端に傲慢で無知であった。西洋の価値観を採用している国々はおしなべて国が衰退しているにもかかわらず、伝統的なアジアの価値観を持ち続けたアジアの国々は、社会的にも経済的にもずっとうまくいっているのだから、戦後の日本は失敗例と成功例をそれぞれ二重に見誤ったと言えよう。

これが日本にもたらされた混乱の原因だと私は思う。人々はかつて政府、企業、両親へ抱いていた信頼を失った。信頼できるリーダーも、将来のビジョンも、導きとなる道徳や精神的支えも失った。古典を学ぶこともなくなった。そんな若者達が、麻原彰晃の言葉にだまされるのも不思議ではないし、政治家の代わりにコメディアンやプロレスラーが票を獲得することも、政治に絶望した石原慎太郎が辞任したことも、今の日本においては、もはや全く不思議なことではないのである。