No.260 日本の不況の原因に関する考察(4)

前回に引き続き、今回も産業革命の終焉について分析する。不況の根本原因は過剰生産にあると私は考えている。

日本の不況の原因に関する考察(4)

日本の生産能力は、その需要をはるかに超える段階に達したと私は確信する。生産量拡大能力は、大量生産された規格品への需要や購買意欲よりも、ずっと速いスピードで増大しているため、これは一時的な現象ではなく永続的なものである。つまり、日本は産業革命の限界に差し掛かったのであり、他の先進国も同じような限界に達している。我々の子孫が産業革命を振り返った時、この時代は長い歴史におけるつかの間のひと時という位置づけになるだろう。

買収や合併が急増する自動車業界について考えてみて欲しい。現在、全世界の自動車生産能力は2,000万台を超えている。生産過剰による経営難が一過性のものであり、この苦境の後に輝かしい未来が待っていると考えたら、クライスラーや日産などの大手自動車会社、そしてイギリスのすべての自動車会社は、果たして身売りなどしたであろうか。

金融業界も同様で、規格サービスの大量提供による過剰状態が見てとれる。シティコープとトラベラーズグループの合併、トラベラーズと日興證券の提携、フランスのソシエテ・ジェネラルとパリバとの合併、ドイツ銀行による米国のバンカーズトラストの買収、富士銀行と第一勧業銀行の提携、東海銀行とあさひ銀行の提携、日本生命とパトナム・インベストメントの提携など、買収や合併が相次いでいるが、人口比では依然として金融機関の数が多過ぎることに変わりはない。

こうした例を眺めているだけではなく、考えてもみて欲しい。私がこの原稿を書くために使用しているパソコンは、私が会社を始めた1972年当時のコンピュータに比べて何十億倍も性能が上がっている。当時はロボットなどなかったが、現代はコンピュータだけでなくロボットやその他高性能の機械を利用して、靴やズボン、ワイシャツ、手袋、ネクタイ、帽子、電話、メガネ、新聞、テレビ番組、保険など、様々な製品やサービスが、30年前に比べて何十倍もの効率で生産されている。しかし、人間を見てみれば、手足や目や耳の数は30年前と同じであり、これらの製品やサービスに対する需要を供給と同じ速度で増やすことはできないのである。

日本が不況から抜け出せないのは、政治家や評論家がこの重要な変化を認識していないためであり、したがって、現在の経済問題を正しく分析することもできない。今の不況を解決するためには、日本経済の正しい分析が不可欠なのである。

ジョン・A・ホブソンは『近代資本主義発達史論』(1894年)の中で、機械と不況の関係について次のように記している。

製造や運送用の機械が改良されることによって、より多くの原材料がより迅速かつ低コストで、生産過程に次々に送り込まれる。しかし、消費者側はそれと同じ速度や割合で消費量を増やしていくわけではない。そして製造および流通の各段階で受注量が抑制されることになる。生産および流通チャネルにおける製品過剰の状態は自動的に生産を抑制し、大量の雇用機会を奪う。製品価格が下落しても、それに呼応して売上増がもたらされなければ、必然的な結果として貨幣所得が下落し、ひいては消費が減少する。市場が売れ残り商品であふれる状態が続く不況下においては、結局、消費の縮小に合わせて生産が削減されていき、生産レベルが消費レベルよりも下がった段階で、作り過ぎた過剰製品が徐々に市場に送り込まれ、やがて景気が上向く。価格を下落させた要因である供給過剰の状態が取り除かれれば、価格は再び上昇し始め、各業界で需要が刺激され、通常の景気回復の徴候が見られるようになる。ただし、最悪の状況では、生産者および消費者の行動が最低レベルに落ち込み、供給過剰圧力の当然の帰結として、生産が縮小され、同時に消費不足が続く。

このように見てくると機械化が不況の直接の原因であるように思われがちだが、不況の根本原因は過剰生産にある。大量の資本や労働がすべての、あるいは大部分の業界において同時に遊んでいるとすれば、その唯一考えられる理由は、資本と労働が組み合わさって生産される商品に対する需要が存在しないためである。

ホブソンはさらに消費の抑制は貯蓄と同じだと説明している。貯蓄という言葉は誰にも馴染み深い言葉であり、人が倹約家であることを誉める時、それは消費が所得を下回ったことを誉めているのである。過去何十年間にもわたり、エコノミストたちは日本の高貯蓄率を経済力の源泉であるとして賞賛し、逆に米国の低貯蓄率を主な経済的弱点の1つであると指摘してきた。

しかし、日本に繁栄をもたらしたその高貯蓄傾向が、今日本を苦しめている原因となっているのである。それはなぜか、またどのような過程を経てそうなったのかについて、以下に私なりの説明を試みたい。

例えば、所得の80%を消費し、残りの20%を銀行に預ける人は倹約家であると賞賛される。日本人が平均で所得の約15%を貯蓄しているとして賞賛を受けるのも、それと同様である。しかし、ただ単にすべての所得を使いきらないことを意味する貯蓄が、それほど賞賛に値すべきことなのか。同じように所得の80%だけを消費し、残りの金を燃やしたり、また、トマトを100個生産しその内80個だけを食べたり売ったりして、残りの20個を腐らせたらどうだろうか。

貯蓄とは、所得あるいは生産物よりも少ない量を消費することだとすれば、貯蓄はその使い方次第で、美徳にも、悪徳にもなり得る。事実、ほとんどの日本人は所得を貯蓄しているのではなく、ただ単に消費を将来に延期しているに過ぎない。現在受け取る所得をすべて使わずに、マイホームや自動車などの高額耐久商品、バカンスや子供の教育、結婚、不慮の事故、定年退職、相続税など、将来の高額な出費に備え、確保しているだけである。人間は一銭も持たずにこの世に誕生し、また一銭も持たずにあの世に旅立たなければならない。それはいいことである。なぜならば貯蓄を天国に持っていってしまえば、それは社会が生産するものの一部しか消費されないことを意味し、永続的な不況を引き起こすからである。

個人と違い、社会には消費を延期する余裕はない。消費の延期とは、すなわち生産よりも消費が少ないということであり、それが不況や恐慌の原因となる。このことは社会から生産されるものがどう使われるのかを分析すれば理解できる。

生産 = 民間最終消費支出
+ 政府最終消費支出
+ 総固定資本形成
+ 在庫品増加
+ 純輸出

いかなる社会も、その生産を民間消費、政府消費、純輸出、そして生産能力増大のための投資に向ける。生産されても消費されずに残るものはすべて在庫増となり、さらに生産を増やしても利益を出すためには、まずその在庫を売らなければならない。すなわち残ったものはすべて生産過剰であり、その在庫を処理するためには過剰消費が必要になる。さもなければ、工場や労働者の生産能力をフル稼働させ続けることはできない。

以下に、個人の貯蓄が社会経済全体にどういう影響を与えるか具体例を挙げて説明しよう。私が資本、土地、労働力を使って100の物を生産し、それを100%売って、100万円の収益を得たとする。そのうち80万円だけを消費し、残りの20万円を銀行に預けた。消費せずに貯蓄した20万円について、どういったことが起こり得るかを考えてみたい。

(a)  誰もそれを使わなければ、社会は消費以上を生産したことになる。近い将来社会が生産したもの以上にプラス20万円を消費しなければ、経済は停滞する。また銀行も預かった20万円を融資に回さないため利子収入を得られず、私の預金にかかる費用を自腹を切って負担しなければならない。
(b)  誰かがその20万円を銀行から借りて、所得以上に20万円を消費したとしても、私の代わりにその人が20万円を消費しただけで、社会全体から見れば利益はまったくない。
(c)  誰かが私の20万円を銀行から借りて、現在生産されていないものを生産するために生産設備に20万円を投資し、それが社会全体の消費および満足度の増加に寄与した場合、私の貯蓄は社会全体の利益につながったことになる。
(d)  誰かが20万円を銀行から借りて、他者がすでに生産しているものを生産する能力を増加するために投資したが、社会全体の消費量の増加につながらなかった場合、2つのことが起こり得る。第一に、同じ製品に対し、従来からそれを提供していた者と、後から参入した者との間で競争が起こる。通常、強い者が勝ち、弱い者が負ける。第二に、社会全体で考えると、同じ生産量を作るのに、より多くの設備を使うことになるため、生産設備の価値が低下する。
(e)  誰かがカジノや競馬、株や債券、外国為替などで博打を行うために20万円を銀行から借りて、博打を行ったとする。この場合、博打の勝者が敗者から掛け金を奪うだけなので、社会にとってはまったくプラスにならない。狡猾な詐欺師がカモから金を巻き上げるのと同じである。また、2人の賭博師が銀行から利率5%でそれぞれ10万円ずつ借り、競馬にその10万円を賭けたとする。あるレースでそれぞれ違う馬に賭けたところ、一方は5万円の配当を獲得し、一方は完全に負けた。勝者は10万円を15万円に増やし、利子を合わせて10万5,000円を銀行に返済し、4万5,000円の儲けを得た。敗者は自分の貯蓄から借金した10万円と5,000円の利子を合わせて銀行に返済しなければならない。借り手が10万5,000円を都合できなければ、銀行は預金者である私に10万円返済するためにどこかから10万円捻出しなければならず、また手にするはずだった5,000円の利子を手に入れることができない。あるいは日本のように、政府がこうした博打の借金を「不良債権」と呼び、不良債権の返済のために国民の税金が使われることになるかもしれない。
(f)  最後の選択肢として、政府がその20万円を借りて、個人が消費しきれない製品を購入するためにその20万円を使うことも考えられる。社会全体として考えれば、その商品は個人が消費しきれない余分な製品であるため、政府が購入した後、埋めるか、隠すかしてしまえば、不況や恐慌を防ぐことはできる。ただし、政府の借金が増大する。産業革命の限界に最初に到達した米国は、余剰な物は戦争で焼却した。二番目に産業革命の限界に直面する日本は、余剰の一部で誰も使わない道路や橋を建設し、それを隠している。日米両国は生産容量がフルに稼働しているように見せかけるために余剰製品を無駄にし、その結果政府は莫大な債務を抱えることとなる。

上記の6つの選択肢のうち、いわゆる「貯蓄」が、社会の利益のために使われるのは(c)だけである。それ以外は社会に対して、ゼロあるいはマイナスの効果しかもたらさない。消費が生産を下回ることによってなされる「貯蓄」が、社会の利益につながるのは、工場やその他の生産財(ただしそれは、消費者が消費したいと思うものでなければならない)のために貯蓄が使われる時である。生産がすでに消費を上回っている社会では、貯蓄を使って生産能力をさらに拡大することは、戦争や博打に浪費するのと同じことなのだ。つまり、大半の人々が信じているように、貯蓄が必ずしも社会に利益をもたらすわけではないということである。貯蓄が単なる過小消費の結果である限り、社会にとってマイナスになる。貯蓄が社会に利益をもたらすのは、貯蓄が社会が消費したいと思うような消費財の増加につながる工場や生産財への投資に使われる時だけなのである。

貯蓄の真の意味を理解すれば、日本が1950年代半ば以降の高度経済成長から、1980年代半ば以降の悪名高きバブル経済へと突入した理由がわかりやすい。

日本の高度経済成長のために資金を供給したのは、倹約家の日本国民であった。日本国民は所得のほぼ4分の1を貯蓄に回し、銀行は高金利を提供することで預金を引き付けた。銀行はその預金を日本企業に融資し、日本企業は完全雇用された日本国民の需要を満たすべく生産設備に投資した。こうした資金の好循環こそ、日本の奇跡的な経済成長を支える原動力だった。徐々に裕福になった国民は、企業に十分な貯蓄を提供し、また企業側は国民に雇用を提供し、さらに豊かな生活の需要を満たすべく貯蓄を設備投資に回し、それによって国民の繁栄が保たれてきた。ところが、生産能力をフルに使って本当に消費される製品やサービスを生産するという、日本人の高い貯蓄の投資先がなくなり始めた。同様に日本企業には、消費につながる製品やサービスの生産能力増加に向けた投資先が少なくなり、その結果、ますます海外市場が狙われるようになった。こうして海外における日本企業の成功が、日米経済摩擦の火種を増加させた。

この最悪の状況の中、当時の日本政府は米国の要求に屈して日本の資本規制を緩め、日本企業に資本の海外調達を許すことで、日本国内での資金の好循環を断ったのである。資本規制を解かれた日本企業の多くは、目先のことだけしか考えられずに、まだ高金利だった日本よりも金利の低い海外で資金を調達し始めた。その結果、日本国内には、消費に結びつく製品やサービスの生産能力増大に向けた投資先が少なくなり、日本では貯蓄の使い道がなくなったのである。

日本政府は1985年、利己的な米国の更なる要求に屈し、共和党の再選を助けるために日本の金利を米国よりも下に引下げて、米国の景気刺激を助けた。そして、日本国内の資金の好循環を完全に崩してしまった。日本の金利引下げは、預金者を犠牲にして日本の銀行を助けることになった。なぜならば、預金者に支払う金利が低くなったからである。

さらに低金利政策は日本の銀行に、日本の企業が借りなくなって余った貯蓄の新しい使い道を提供した。それが別名バブルと呼ばれる「博打経済」である。

日本政府が米国からの要求に屈した結果、まず資本の海外調達が解禁され、日本国内の貯蓄の使い道が減り、次に金利引下げにより資本コストが下がった。そして多くの人々がこの大量に余った安い資本を使って、一儲けしようと考え始めた。日本はすでに大量生産の規格品への需要は飽和状態にあり、消費増が望める製品やサービスの生産設備にその資金を使うことができた企業や個人はほとんどなく、消費増につながらない製品やサービスの生産設備に投資し、その結果単に無駄を増やしたり、競争を激化させた者がほとんどであった。中には外車やブランド品など、身分不相応な贅沢品を手にするために低金利で借金をした人々もいた。また多くの人々や企業が、その安い資本を元手に、株や債券、土地、通貨などを対象とした博打に興じた。

このように見ると、米国の勝手な要求に屈した日本政府の失策が原因で、日本のバブルが生じたことが理解できるはずである。

バブルの狂乱の中、博打に耽った当事者達を非難することは簡単だし、そのバブルのお膳立てをしたのが日本の政治家であることは忘れてはならない。しかし同様に、日本には消費需要を超える過剰な生産能力がすでに存在しており、日本の貯蓄を社会全体の利益のために使う選択肢はほとんど残されていない、ということを理解することも重要である。