No.305 日本人社会の特質 - 読者からのご意見と回答

今回も前回に引き続き、読者からいただいた感想に対し、私の意見を加えたものをお送りします。

日本人社会の特質 - 読者からのご意見と回答

読者: 以前から、なぜ、日本企業の特徴といわれた終身雇用、年功序列、企業内組合が成り立ったのか、不思議に思っていた。儒教における長幼の序の影響があるという説もあるが、それでは説明できないと思っていたら、ある本を読んでいて、うんなるほどという説明に出会った。その本は河合隼雄氏の『母性社会日本の病理』でもう20年も前に出版されたもの。それによると、日本人社会の特徴は「場の倫理」を大切にする、欧米は個(個人)の倫理を大切にする。「場の倫理」とは個人よりも全体、集団の和を最優先する、場を乱すものは排除される。欧米では集団よりも、その集団を形成する個人の欲求なり自立を最優先する、いわば個人主義の社会である、ということが書いてある。

回答:  「場の倫理」と「個の倫理」の区別は大変重要だと思うが、次の2つの点を指摘しておきたい。第一に、「欧米」という場合には注意が必要である。多くの日本人が欧米といった場合、米国だけ、あるいは英米のみを指している。なぜなら日本人が「欧米の考え方や信念、慣習」という時はたいてい米国、あるいは英米のみに関するものを指していると私は思うからである。特にヨーロッパの社会民主主義諸国の多くは、英米とは極めて異なる考えを持っていると思う。日本人はそのようなヨーロッパ諸国と英米との違いに、もっと注意を払うべきである。第二に、個人主義の信奉、社会主義への嫌悪、社会的義務に対する個人的自由の優先といったことは米国または英米に起因するものであり、他のヨーロッパ諸国のものではない。社会の義務よりも個人の自由を信奉する考え方は、徒党を組み、遠方の地を襲い、略奪し、植民地化した海賊や征服者、あるいはその植民地への移住者にとっては適したものかもしれないが、地域社会で他の住民と共同生活を営む人々には適していないと思う。個人の自由を信奉する人の多くは、個人が日本のような社会から受ける恩恵、すなわち、個人が社会や社会の他のメンバーにどれだけ依存しているかを理解していないのではないだろうか。

読者: 「場の倫理」という見方で、日本の社会を見てみると、50年前の軍国主義を引き合いに出すのはどうかとも思うが、例えば、プロ野球では日本は勝つために個人は犠牲となって、チームプレイに徹する。アメリカの大リーグでは、お客さんが見に来ているのはピッチャーが自分の力をすべて出して打者を抑えようとする、打者は来た球を全力で打ち返そうとする、そういう大リーガーの個人の力をまず見に来ている。大リーガーが日本に来て、日本野球は野球ではない、といったそうだが、こだわりのポイントが全然違う。日本はチームの勝負にこだわり、アメリカは一種のショーとして個人のプレイにこだわるといえる。

回答:  オリンピックや大学野球では、日本チームは米国チームに善戦している。米国の大リーガーたちと日本の野球選手との公開試合は、日米野球の相対的な強さを測ることにはならない。

読者: 「場の倫理」では個人よりも集団優先であり、昔から、親のしかり方が、それでは世間様に顔向けできないとか、~のために我慢せよ、とかいわれたわけであるが、「場の倫理」の価値観をよく表している。つまり、場の平衡状態の維持に最も高い優先順位を置くわけで、河合先生によれば、これこそ母性原理に基づく倫理観である、ということなのである。

回答:  ここで指摘されている、日本を母性原理、米国を父性原理に喩える考え方は有益であり、私がよく行う、狩猟民族と農耕民族との比較に似たものではないだろうか。つまり、母性が農作物を植えて育てる農耕民族に置き換えられ、父性が獲物を捕えて殺す狩猟民族に置き換えられると思う。

読者: 「母性原理というのは、包含する(包み込む)機能によって示される。良きに付け悪しきに付け包み込んでしまい、そこではすべての物が絶対的な平等性を持つ。母親という物は我が子である限り、子供の個性や能力とは関係なくすべて平等に可愛いのである。しかし、反面では母親は子供が勝手に母の膝元を離れることを許さない。それは、子供の危険を守るためであるし、母と子一体という根本原理の破壊を許さぬためといってもいい。つまり、母性原理は肯定的な面では慈しみ育てる物であり、否定的な面では呑み込みしがみつき極端な場合には死に至らしめる面を持っている」

これに対して、「父性原理(これが欧米では強いわけであるが)というのは、切断する機能にその特性を示す。つまり、すべての物を切断し、分割する。例えば、主体と客体、善と悪、上と下などに分類し、母性がすべての子供を平等に扱うのに対して、父性は子供をその能力や個性に応じて類別する。そして、良い子強い子だけを育てようとする。父性原理は強い物を作り上げていく建設的な面と逆に切断の力が強すぎて破壊に至る面と、両面を持っている」

母性原理の日本では、長い物には巻かれろ、とか、和をもって尊しとなす、という言葉で表されるように集団主義であり、出る杭は打たれる平等主義であり個人の顔が見えない同質社会である。そこでは場に属するか否かが決定的な要因となるのであって、場の中に入れてもらっている限り、善悪の判断を越えてまで救済の手がさしのべられる。また、場の中においては、すべての区別が曖昧にされて、つまり、白黒をはっきりさせずにすべて灰色になる、という、場の内では妥協というよりもっと根元的な一体感、曰く言い難い感情的結合によってすべてのことが曖昧になってくる。一方、場の内と外の関係は白黒はっきりした対立を示す。場の外にいる者は「赤の他人」であって、赤の他人に対しては誠に冷たい仕打ちも平気でする。いわば、依存対自立、情と理という対比になろう。

学校を捉えてみても同じようなことが言え、入るのは難しいが一旦入学すると大体落第もせず卒業できる。落ちこぼれを出さない、つまり、みんな一緒に、という感覚。しかし、これは学校側が対面を気にした物ということもできそう。いわば、学生の責任というより学校という場の責任にすり替えられている。父性原理の社会では、小学校でも落第する。日本人から見れば、かわいそうではないか、という気になるが、欧米人にいわせれば、ついていけないのに難しい勉強をさせ、結局本人の成長にならない状態を作っている方がよっぽど、その本人にとって、気の毒ではないのか、ということになる。まさに、場の倫理か、個の倫理かの違いが如実に現れている。

回答:  しかし、我々は世捨て人のように1人で暮らしているわけではなく、誰もが他人に、つまり社会に依存して、集団で暮らす社会に生きている。場の倫理と個の倫理のどちらがこうした社会にふさわしいだろうか。

読者: 日本人のディスカッションでは、相手が自分と同じ意見を持っていることがわかると安心する、あるいは、個人の意見はできるだけ曖昧にして、場の総意を求めようとする。しかし、欧米ではまず、個人の意見の違いを確認する。そこに、日本人がいて、曖昧な表現で場の総意に任せようとすると、個人としての意見がないというのは未成熟か他人には心を開かない気味が悪い人と思われてしまう。欧米人にとっては一人一人顔が違うように、意見も異なるのが当たり前で、その上で結論をどう導くかが会議/ディスカッションである。

回答:  欧米人(日本人にとっては英米人)が個人としての意見を主張しない日本人を未成熟だと考えるのであれば、日本人は欧米人を野蛮だと思わないのだろうか。日本人は自分たちのやり方や慣習にもっと自信を持つべきだと私は思う。海外へ行けばその国のやり方に従う柔軟性を持つことは大切だが、日本国内では日本のやり方や慣習に従うよう、部外者に要求するだけの信念と自信を日本人は持つべきではないだろうか。

読者: 欧米人のディスカッションは議論を百出して、日本人から見ると、まとまるのかと冷や冷やするが、結果はちゃんと出てくる。しかし、日本人の議論は最初から結論が見えていて、うまく全会一致で決まっているようで、どっこい、裏では個人としては反対なんだけど、というかえってどろどろした物が残るか、自分の意見を最後まで押しつけようとして、つまり、相手が自分の意見と違うとなると安心できないから、議論ではなく、本物の喧嘩になってしまう。

回答:  ここで読者が主張していることは、欧米人は結論を引き出すために会議を行うが、日本人はすでに結論に達している事項を批准するために会議を行うということであろう。だとすれば、これは単に、会議を行う上での手法の違いを述べているに過ぎない。したがって、日本人も欧米人も、日本と欧米それぞれでどのように結論が導かれ、意思決定が行われるのか、どのような目的のために会議が行われるのかを理解する必要がある。

読者: 企業社会を見てみても、まさに場の倫理が中心になっている、という出来事が頻発している。総会屋対策の話、あるいは証券会社の裏取引(飛ばし)あるいは大蔵省の金融機関に対する護送船団方式、これらはまず、会社なり金融機関という集団を守るというのを最優先していて、善と悪の区別は飛んでしまっている。というより内部にとどめておいて外に対しては取り繕う、きれいな面だけ見せておけばよい、極端に言えば、利用者なり、社会全体の影響を考える、という視点がない。

回答:  ここで問題にされているのは、道徳や倫理の問題だと思う。日本の制度の多くは、1945年までそうであったように、すべての国民が完全に儒教に基づく道徳や倫理教育を受けているという前提のもとに構築された。プラトンが『国家』の中で提唱した教育が彼が掲げる政府の形態にとって不可欠であるのと同様、日本の制度にとっては儒教の教育が不可欠なのである。しかし、残念なことに、日本は儒教に基づく道徳や倫理を、1945年以降教えていない。その結果、日本は儒教の道徳や倫理に基づく政府の形態をとりながら、それを治めている人々は、その道徳や倫理の教育を受けていない。それが原因で、読者が指摘しているような問題が発生していると私は考える。

読者: 政治の世界を見ても、「永田町の論理」という言葉があるとおり、門外漢から見ると一体何を考えて何をやろうとしているのかわからない世界となっており、仲間内の論理が優先されて国民は白けている。これらはいずれも内と外の区分が強すぎて、かえって信頼感をなくす、という現象になっている。

回答:  こうした問題も、日本が儒教の教育を続けていれば存在しなかった、あるいはこれほど悪くはならなかったのではないだろうか。

読者: 企業を場の倫理という観点から眺めてみると、他にも思い当たることがたくさんある。まず、労働市場が閉鎖的でオープンではない。入るのは難しいが、一旦入ってしまうと、その中ではぬくぬくとした場が提供される。

回答:  私は、「労働市場」や人材という言葉が好きではない。我々は社会の一員であり、市場で体を売り物にする売春婦とは違うはずだ。

読者: 入社するときに一応、労働契約を会社と個人が結ぶが、その内容は白紙委任。どういう仕事で勤務場所はどこで、どういう責任と権限があって報酬はいくら、という本来の契約内容は一切ない。すべてお任せであって、人事権はすべて会社にあることになっている。もっとも、会社も本人もあまり契約内容を気にしていない、本人は気にしているのだけれども、あまり細かなことを言うのは大人げないというのが、普通の感覚。だから、職を選ぶのではなく、会社を選んで入社する。就職ではなく、就社である。

回答:  日本の会社とは、社会の他のメンバーに特定の商品やサービスを提供することにより、社員の生計を立てることを目的に団結する人々の集団ではないだろうか。会社は、同じ目的のために団結するクラブや家族などの集団と同じであり、その運営方法もそうした集団と同じであるべきではないのか。つまり、上記に書かれていることは、クラブや家庭では当然なのではないか。

読者: 入社すると場の中に入り、よほどのことがない限り会社はその人を守ろうとする。自然に終身雇用になるという次第。昇進については能力主義が徹底し始めているが、それでも、課長になるには、あるいは主任になるには、大学卒なら、何年以上の経験がないとなれない、という年次管理をしているのが普通。これも、内部であの人が課長になって、同期の自分がなれないのはけしからん、という声が、ある意味では怖い、それを避けるためのまさに場の倫理。賃金も、同じ仕事であっても、勤続の長い人の方が高い賃金になっている。もっと言うと、つい最近でも我が社では低いレベルの仕事をやっている人の賃金の方が高いレベルの仕事をやっている若手の賃金よりも高い状況があった。

回答:  私の経営する会社でもこうした状況が見られる。

読者: また、日本人の話の仕方、意思伝達の仕方は「以心伝心」がもっとも尊ばれる、というか、一々話をしないと理解できないというのは、能力がないのではないか、という見方をされる。昔から、1を聞いて10を知る、というのが頭がいいとされている。しかし、これも内と外の区分が強いせいであって、外、特に欧米人から見ると日本人は何を考えているのかわからない。にやにやとして、はっきり言わないのは気味が悪い、あるいは馬鹿にされている、と映っている。

回答:  繰り返しになるが、日本では日本流に行い、部外者には日本では日本のやり方に従うよう主張できるだけの自信と信念を持つべきである。そして、海外に住みたい、働きたいと考える日本人は、その国のやり方を学び、それに従うだけの柔軟性を持てばよいのである。

読者: よく考えると、日本の企業のように集団の中に縛り付けておくやり方は、会社好みの人間を作るには最適だが、そのために、世界の標準からはずいぶん遅れてしまったし、個人にとっても、本当の自分を見い出せないままに、結局身を滅ぼしてしまう、というようなことも起こる、という感じがする。

回答:  「世界の標準」とは何か。意味のある世界標準などないのではないかと私には思える。今日の日本人は、利益追求や富裕者をさらに富ませるという、米国人のやり方を模倣している。しかし、大半の日本人は大半の米国人よりも、幸せに、健康に、また豊かに暮らしていると私は思う。

読者: しかし、日本の「場の倫理」がまったくだめで欧米の個の重視に全面的に移行すべきと思っているわけではない。欧米の企業も、従来の効率一辺倒、あるいは、個人主義からくる無味乾燥のシステム、例えば、自分の部下にノウハウを教えない、自分の部下には優秀なものはいらない、自分の存在が危なくなるから、というような雰囲気で本当に永続性のある企業活動ができるか、という反省が起こっている。従って、どちらもいいところがあるので何とか2つを統合した概念を目指せないかと思っているが、現在の日本企業の状況から言えば、時計の振り子と同じで一旦、欧米流を身につけないことにはちょうど中間のいい状態にならないのではと思っている。

回答:  私は、明治維新の指導者たちは大きな過ちを犯したと思っている。彼らは米国(そしてヨーロッパの戦勝国)の「軍事的」優位性を認めると同時に、日本の「社会的」優位性も認識すべきであった。野蛮人から日本と日本のやり方を守っていくだけの軍事力が必要だということに気づくべきであった。しかし、日本は自ら野蛮人となる帝国主義的路線を選択してしまった。

今日、多くの日本人が同じ間違いを犯そうとしているように思える。今回は欧米の野蛮人は軍事力ではなく、マインド・コントロールを使って日本と日本流のやり方を潰そうとしている。日本はそれを防ぐに足るだけの経済力・政治力を身につけさえすれば良いにもかかわらず、自ら経済的野蛮人となって他の国を圧倒しようとしている。