No.375 民主主義の再考(後編)

今回も前回に引き続き、米国の民主主義は虚構だとする鋭い見解を示した、チャールズ・ビアード/メアリー・ビアード共著『America in Midpassage』より「民主主義の再考」(17章)からの抜粋をお送りします。米国政府や企業がまとめた教科書やプロパガンダで洗脳されている日本人には受入れ難いことかもしれませんが、米国は当初は共和国として、また最近は民主主義国家として装っているものの、実体は常に金権主義以外の何ものでもありません。このメモをお読みになれば、米国の民主主義を正しく理解できるのではないかと思います。皆様からのご意見をお待ちしております。

民主主義の再考(後編)

 

 後に学問的な考えを支配した古典経済学者とは異なり、米国の憲法や州法を草案した公事におけるリーダーたちは、政府と経済が別々の、あるいは分離可能なものではなく、密接に関連していると考えていた。また資産については、有限で生まれた時から固定され独立した変わらぬものとは見なさず、政府の形態や機能、政党の構造や働きと関係があると捉えていた。また、政府を単なる国民の意思として捉え、同じ階級の中であろうが全人口の中であろうが、1人1人の国民を平等に扱うものだという幻想も持っていなかった。それどころか、専制政治であろうが君主政治であろうが、貴族政治であろうが民主主義政治であろうが、あらゆる政府の形態は、富の形態あるいは分配と密接に関係していると承知していた。社会のリーダーたちは、政府のすべての基本的行動が、社会の様々な利害を反映し、またそれに影響すること、さらにはそのような利害がすべての複雑な、文明化した社会に容赦なく露見することを心得ていた。初期の米国という共和国の思想体系の中で、富とその分配は法律と行政の中核をなしていた。

 産業革命が米国でかなり進行し、機械工や熟練工が参政権の平等を求め、それを勝ち取りつつある中、建国の父たちと同様、ダニエル・ウェブスターはこの政治と経済の一体化を心得ていた。ウェブスターはこの点をさらに深く追求し、経済学を、政府の形態や過程を形成する決定要因であると捉えた。「この考え方は政治学そのものと同じくらい古い。軍事力がなければ、資産を持つ人々の手に政治の力が渡るのは当然かつ必然的である。したがって、共和国の形態の政府は、政治機構と同じくらい、資産の相続や転換を規制する法律に根差している、と私は考える。資産の権利を十分に保証できない集団に、政府という名前を与えるだけでも恐ろしいことである。世界が目にしてきた破壊的な革命、また社会の柱を最も深い基盤から突き崩した政治的嵐や地震は、資産に対する反乱であった」。結局、政治的権力の真の基盤は資産であり、政治革命は資産にまつわる闘争から生まれるということだ。このように資産が必然的な決定要因であると考えなければ、革命的状況を説明するのは難しい。

 ウェブスターは、米国の実際の状況に照らし合わせて、米国政府の構造や形態は経済的現実によって決定されたと宣言した。「ニューイングランドの我々の祖先は、ヨーロッパから巨額の資本を持ち込んだわけではなかった。資本を持ち込んでも、生産的な投資対象は何もなかった。彼らは封建的政策のすべてをヨーロッパ大陸に残して新天地にやってきた。地代を生む土地も、その土地で働く借地者もいなかった。祖先たちは、元々の状況からか、あるいは利害を共有する必要性からか、資産についていえば、ほぼ同レベルであった。何もない状況だったので、土地の区分と分割が必要だった。そしてその必然的行為から、政府の将来の構造と形態が決定されたといってもよいであろう。彼らの政治制度の特徴は、資産を保証する基本的法律によって決定づけられた。結果として、これらすべてが、土地の細かい分割と偉大なる平等につながったのであり、それこそ確実に、人民のための政府の真の基盤であった」。つまり、ウェブスターは、土地という資産の分配が、米国民のための政府の基盤と希望だと考えた。

 同様にウェブスターは、資産の集中と民主主義政治は両立しがたく、これら2つが存在すればある種の革命の方向に向かうと見ていた。「最も自由な政府が存在し得たとしても、少数の手に急激に富を集中させ、大半の国民を無一文の従属者にする傾向が法律に見られる限り、その政府が長く受け入れられることはないであろう。例えば、普通選挙権は資産の格差の激しい社会には長く存在し得ない。資産を持たない人々は、必要以上の資産を持つ隣人を見て、資産保護の法律を支持することはできないであろう。この階級に属する人々の数が増えれば、彼らの要求は膨れ上がる。そして資産を自分たちから奪った戦利品、略奪品だと捉え、いつ暴力や革命が起きてもおかしくない状況になる。そこで、資産の上に政府を築くことが政治的知恵の一つと考えるようになる。そして、政府の保護の下で社会の大多数の人々の利益につながるよう資産を分配すべく、資産の相続や譲渡を規制する法律を制定する。これこそ、米国の共和国制度の真の理論および実践であると私は考える」

 ここでウェブスターが指摘していることは、経済的決定論から出た政治的知恵である。つまり経済的利害のみ考えることを拒む賢明な政治家であれば、公的制度の経済基盤を維持するために資産の分配を確立すべきだといっているのである。

 政治と経済が現実に連携するものなら、資産の分配がひどく不均衡であればどのような結果がもたらされるであろうか。ジョン・アダムス、アレキサンダー・ハミルトン、ジェームス・マジソンから、この質問に対する1つの解が得られる。彼らは、過半数の国民が実権を握ることを阻止するため、投票に左右されないが民主化あるいは平等化傾向から資産の権利を死守する司法、行政、立法という独立した3機関を確立させた。実際、1787年の憲法制定会議出席者の過半数は、このような政府の確立を狙ったが、最終的に制定された憲法に完全に満足した者は誰1人としていなかった。

 大衆的な神話によって、ある程度憲法の否定的な側面は曖昧にされてきたが、知識豊富な賛成・反対両派の実務家、あるいは学界のより鋭敏な思想家は惑わされなかった。ジョン・W・バージェスはコロンビア大学で長い間、そうした憲法の考え方について教えたし、ウッドロー・ウィルソンも政治家を目指す前は、学者として、特に米国上院議員の一般選挙への反対、さらには司法独立の保護の立場から、米国憲法の否定的立場を支持していた。上院議員の一般選挙、国民発案、国民投票、司法への攻撃、急進派や進歩派が最高裁判所に保守派弁護士が任命確認するのを阻止する動きなど、あらゆる議論に憲法が民主主義を妨げているという考え方がいつも登場した。評論家的な哲学者とは一線を画す、差し迫った必要性に頭を悩ませる人々は、公に認めはしなかったが、憲法の概念が、資産を持たない大半の国民の行く手を阻む障害になることを理解していた。

 イェール大学の学長A・T・ハドリーは1907年、憲法が民主主義を阻害しているという考え方を最も強固に、また明確に記している。資産の所有者について、「当座のものではなく、長期的にその身分や将来に影響を与えるかなりの条件は、世界を見ても米国は圧倒的に強い。法で認められている資産の所有者の普遍的な地位は、司法、行政、あるいは有権者のあらゆる行動、またはそれら3つを合わせたものでも変えることはできない。これを変えるには、裁判官の統一した見解によって、彼らの過去の見解を見直すか、面倒で遅々としたプロセスを経て憲法修正条項を作成するか、または最後の、そしてもっとも有りそうもない願いだが、革命が起きるかだ」

 「近代国家における基本的な権力の分立は司法、行政、立法の三権分立だと一般にいわれるが、米国の制度の下で育った者は異議を唱えるかもしれない。米国憲法における基本的な権力の分立は、有権者と資産所有者である。一方の民主主義の力は行政と立法に分割され、もう一方の資産所有者の力と対抗し、その間の調停者として司法が存在する。憲法は、立法と行政が資産の権利を侵害するのを禁じるだけでなく、司法に対し、憲法そのものが指定する方法でその権利を定義すると同時に、保護することを要求している」

 「米国政治のこの理論は、語られることこそなかったが、一貫して行動の規範となっていた。それがはっきり述べられてこなかったのは、その行動があまりに普遍的で、祖先たちが誰一人としてそれに言及する必要を感じたことがなかったためである。それが米国の政策に最も根本的かつ広範な影響を及ぼしてきた。その多くの影響の1つは、普通選挙権の試みであり、それがアテネやローマを没落に導いた状況とは根本的に異なるものであった。有権者は限られた地域においては絶大な力を有していた。法律が財産権を侵害しない限り、有権者は自分の好きなように法律を制定した。またその有権者は、憲法が資産所有者に託した任務を自ら果たそうとしない官僚の中から、自分が好きな官僚を選ぶことができた」

 上記が20世紀の初頭に、著名な大学教授ハドリーが見た、ハミルトン、アダムス、マジソンの憲法の否定的な概念である。その史実性および微妙な差違は明白であった。彼の分析はハミルトン、アダムス、マジソンが、富裕者や良い家柄の人々の権利を過半数の無産階級が侵害することがないよう、抑制と均衡によって阻止したいと考えていたことを明確に表している。また、民主主義は特定の状況下で取り入れられ、司法上の決定に有利なように、政治的な民主主義が資産の分配と累積を根本的に変更することはないと解釈される憲法のもとで試された、という点でも正しかった。

 米国は明らかに、有権者と、資産所有者との間の対立を認識している。そしてその政府の形態は、特定の民主主義の理論のもとで、多数決原理が行使されるのを抑制するよう機能しているのである。