No.433 3つの冷戦(1)

今回から3回にわたり、日本政策研究所所長、チャルマーズ・ジョンソンが書いた論文をお送りします。第1回目は、ソ連崩壊後のヨーロッパにおける分析です。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

3つの冷戦(1)

日本政策研究所論文 2000年12月号
チャルマーズ・ジョンソン

 米国のほとんどの政治専門家たちは、ヨーロッパとその問題だけを見て、当然のように「冷戦は終わった」ものと信じ込んでいる。しかし、それは1989年のベルリンの壁の崩壊と1991年のソ連邦の解体で、ヨーロッパの冷戦は終わったと思っているに過ぎない。その観点からいえば、冷戦における米国の勝利も、また米国が残る唯一の超大国であることも間違いはない。政治専門家たちは、東アジアや中南米では冷戦が続いていることを無視しているか、または気づいておらず、その理由が自国の存在にあることも認めていない。

 外交政策に興味を持つ数少ない米国人は、なぜ今もNATOが必要なのかを考えてみもしなければ、ドイツやフランスなどの主要ヨーロッパ諸国が、米国の勝利主義の誇示に対し公然と憤りを示していることを懸念してもいない。また、米国人は1999年のNATOによるバルカン戦争への武力介入が、圧制から民間人を助けるための「人道的介入」であったと考えている。他の国の多くの人々がこの介入を米国の帝国主義の表れと受け取り、それを警戒しているにもかかわらず、米国人だけがそれに気づいていない。

 また2000年6月に、朝鮮人民共和国と韓国の両首脳がピョンヤンで会談し、朝鮮半島の統一を見据えたプロセスが緒についた時に初めて、東アジアの冷戦が終結に向かったということも米国人は認識していない。朝鮮半島統一までにどれだけ時間がかかるかは分からないが、この首脳会談後、韓国の金大中大統領は、「北朝鮮はもはや武力で統一を図ろうとはしないであろうし、韓国も北朝鮮を攻撃するつもりはない。この首脳会談の最も重要な成果は、もはや戦争がなくなったということである」と語った。こうした展開は、米軍、米国の軍事産業、東アジアの覇権国としての米国の立場など、米国の利害に相反するものであり、米国の戦略家や諜報員の間に波紋を呼び起こした。同様に、南米でも冷戦は終わっていないどころか、麻薬撲滅戦争を装った米国の軍事介入拡大により、2000年7月、コロンビアではさらに過激な段階に突入した。1980年代を通して、ベトナム戦争を彷彿とさせる軍事介入を米国が中南米に対して行った直接的な結果として、南米では、秘密工作、環境破壊、右派による暗殺隊、巨額の武器販売といった新たな局面に向かっている。

 実際、ヨーロッパでの冷戦は正式に終わってはいない。旧ソ連邦が解体したのは、東ヨーロッパ帝国を維持することが、あるいは内部変革が不可能だったためである。ソ連の解体は米国への信頼性を揺るがせた。第二次世界大戦後の40年間、米国にとっては、ソ連の脅威こそが共産主義に対抗する世界的かつ多面的作戦を正当化する主な理由だったからである。その脅威(実際、この脅威は本物だった)が消滅した時、冷戦時代、米国には、ソ連との力の均衡および封じ込め以外にも公に認めていない目的があったことが明らかになった。米国はソ連に支配されていない地域での覇権を絶えず維持してきた。しかし、冷戦が終わると見られた時、米国は世界に散らばる同盟国および米軍を解散しようとせず、維持した。また、帝国的な警戒を必要とする新たな脅威や状況を探すために、広範な戦略的および知的努力を開始した。その例としては、コソボでの「人道的戦争」や、アジア太平洋地域全体の安全維持のための、台湾に代わり中国の内戦への新たな介入、さらには中南米の事実上すべての軍隊の訓練や装備を続けながら、コロンビアの左派による社会改革運動への武力対抗といったことが挙げられる。

【 ヨーロッパでの内戦 】

 フランスの知識人レイモンド・アロンは、1983年に亡くなるまで、フランスの他の多くの評論家の指摘に対して、戦後のヨーロッパにおける米国の外交政策を熱心に弁護してきた。彼の視点は、冷戦に対するヨーロッパの一般的な考え方を明確に示している。「1946~47年における米国の目的は、第三帝国(1933~45年、ヒトラー治下のドイツ)の消滅と、論理上は勝者となった古い国家の疲弊で生まれた真空地帯をソ連が埋めないよう阻止することにあったのは、国家関係を伝統的な分類で見る者にとっては明らかだった。米国の軍隊に守られた保護領が20年後もヨーロッパに存在するとすれば、それはヨーロッパ人自らがそれを差し迫ったものとして要求したからである。ヨーロッパでの成功には、限定戦争も、反革命も、CIAも必要なかった」

 しかし、アロンがこれを記した時、ヨーロッパで無数のCIA工作が行われていたこと、またその中には自らが批判していたソ連の全体主義行動とまるで同じものもあったことを彼が熟知していたと指摘しておかなければならない。ただし、彼の視点はここに示されている限りでは、かなり正しい。ヨーロッパでは他の選択肢がなかったために、米国が成功したに過ぎない。つまりヨーロッパの冷戦では、ソ連の絶対的な敗北に比べ、米国の勝利は圧倒的というほどのものではなかったのである。

 スターリンが武力で東ヨーロッパに戦後のソ連帝国を築いたように、米国も東アジアに帝国を築いた。両帝国とも武力以外の方法では存在し得なかった。ソ連帝国とは、1989年のソ連邦の解体まで、共産主義圏の中心を形成していた東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、アルバニア、ブルガリアという、7つの人民民主主義国家のことである。対する米国帝国は、当時のタイ、南ベトナム、フィリピン、台湾のかつての政権を含み、米国が東アジアに確立した衛星国制度である。その中で、冷戦時の立場が今も変わっていないのは、日本と韓国だけである。1956年のブタペスト、1968年のプラハに対するソ連の軍事介入、また1950~53年の韓国、1954~75年のベトナムに対する米国の軍事介入に見られるように、両帝国とも、帝国体制の維持を目的に民衆運動を武力で鎮圧しようとしてきた。

 1989年11月9日に東ベルリンの市民が1961年からこの市を分断してきた壁を壊し、1990年10月3日、東西ドイツは正式に統一された。1989年12月、マルタでの米ソ首脳会談でブッシュ大統領は冷戦の終結を宣言した。しかし、もし冷戦が終結したのであれば、なぜ米国は10年以上経った今も、40もの国に米軍基地を置き、国外に26万人以上の兵士を配備しているのか。1995年の国防省の報告書によれば、重要な69カ所の米軍基地のうち、最大数を受け入れている接受国は13もの基地がある日本で(そのほとんどが沖縄)、第二位はドイツで10の米軍基地がある。

 米国民がヨーロッパの冷戦で勝利を収めたのは、いくつかの点において民主主義国家に属していたためである。逆に、ソ連が冷戦に負け解体されることになったのは、全体主義に依存していたためである。それにもかかわらず、民主主義へのコミットメントの共有に基づく米国と主要ヨーロッパ諸国の同盟関係は、冷戦後の10年間で擦り減ってしまった。秘密の帝国主義プロジェクトへのコミットメントゆえに、米国はマーシャルプラン以降、それまでに培ってきた信用を空費した。ヨーロッパ諸国は、米国の行動を警戒し、米国勢力に拮抗しようと、団結して投票を行うことが増えてきた。

 例えば、1999年11月に国連は、弾道ミサイル迎撃ミサイル制限条約を1972年に締結した米国およびロシア(旧ソ連)に対し、自国領土の防衛のための弾道弾迎撃ミサイル配備を慎むと同時に、そうした防衛基盤を提供しないよう求める、ロシア、中国、ベラルーシ提唱の決議を賛成54票、反対4票、棄権73票で採択した。これに反対票を投じたのは、米国、イスラエル、ラトビア、ミクロネシアの4カ国であり、欧州連合15カ国のうち13カ国が棄権し、残る2カ国、フランスとアイルランドが賛成した。またこの決議が採択される前に、フランスが、大量破壊兵器とその運搬手段の拡散阻止の努力を求める修正条項を提案し、賛成21票、反対1票、棄権95票で可決されたが、この時も米国は反対票を投じた。

 同様に、18歳未満を軍に入隊させることを禁じる「国連子供の権利条約」の署名を拒んでいるのも、ソマリアを除くと米国だけである(米軍では17歳の少年や少女を軍に入隊させることがある)。また、大量虐殺の嫌疑がある指導者を裁判にかけるための国際刑事裁判所の設立にも、米国は断固として反対の立場をとっている。加えて、地雷使用が不可欠だと米国が主張する南北朝鮮で、両国を結ぶ鉄道事業再開のために地雷が除去され始めたにもかかわらず、米国は対人地雷全面禁止条約にも加盟していない。

 米国の一方主義(ユニラテラリズム)が、ヨーロッパの冷戦に見られた民主主義国家の連合体制を崩壊させつつある。それを示す最も重要な例が、前述の、包括的弾道弾迎撃ミサイル構築へ向けた米国の取組みである。もし実際にこれが配備されれば、過去30年間、核戦争防止のために存在してきた条約がないがしろにされると同時に、核軍拡競争を再燃させかねない。加えて、1999年10月、米議会が包括的核実験禁止条約を批准しなかったこと、また米国防総省が核弾頭の数を冷戦時の水準から削減していないことを考えると、米国の国家ミサイル防衛(NMD)はヨーロッパ人の目には、世界がどう思おうと単独行動をとるという米国の強い決意の表れに映る。

 国家ミサイル防衛の技術的問題が克服されたとしても、この防衛を意味のあるものにするには、まず米国が核弾頭の数を現在の約7,000基から1,500基程度に削減する必要がある。ロシア、中国など、米国が核の優位性を得ようとしていると疑う大国を説得するにはこの方法しかない。それができて初めて、米国は、核の報復という結果に無関心な攻撃相手、あるいは間違ってミサイルを発射し得る相手を対象に、約100~200の迎撃ミサイルで構成される制限的なNMDの配備を考えることができるのである。しかし、米国は核弾頭の数を削減するそぶりさえ示していない。インドやパキスタンで核が深刻に拡散しているのは、米国がこの問題に無関心であるが故である。また、だからこそ、このミサイルプログラムが純粋に防衛のためのものだと米国が主張しても、ヨーロッパ人はそれを信じないのである。加えて、米国が依存するレーダーの少なくとも一部は、現在、米国の利用が許されていない、デンマーク領のグリーンランドに置かれることになるため、結局、ヨーロッパ人の協力が得られなければ、いかなるミサイル防衛も機能しないことも指摘しておかなければならない。

 こうしたことは、米国とヨーロッパの同盟国間に存在する能力および視点の差異だけで説明できるものではない。冷戦時の米国の戦略家の中でおそらく最も経験豊富なポール・ニッチが、最近、次のように記した。「報復を含めたとしても、米国の核兵器使用が賢明だと思える状況はまったく考えられない。むしろ核兵器があることが、我々の存在を脅かすことになる。今なら、核弾頭を一方的に除去しても安全である」。精密誘導装置付きの通常兵器の出現により、核兵器は時代遅れになったとニッチは主張する。同じく有能な戦略家であり、空軍33年目のベテランで1991年には戦略空軍総司令部司令官を務めた、ジョージ・リー・バトラー将軍は、「共産主義の崩壊を目撃したものの、核兵器から開放された世界を思い描けないなどという歴史的展望があるだろうか」と述べている。バトラー将軍は、自分が司令官を務めた司令部の廃止を提唱している。「何千万人、何億人もの死をもたらす脅威があること、すなわち核の存在自体が、人類史上、最もひどい残虐行為の予兆だということを我々は当然理解している」とバトラー将軍は書いている。しかし、1世紀前のドレフュス事件を彷彿とさせる、中国による米国の核機密漏洩疑惑や台湾系米国人スパイの捜査に対して、1999~2000年に米国が示した病的興奮状態を見れば、そうした理解が未だ存在していないことは明白である。

 米国は冷戦時代、西ヨーロッパを究極のドミノ、すなわちいかなる状況下においてもソ連に敗北を喫してはならない地域として捉えてきた。そこで米国は西ヨーロッパに最強の同盟関係を築くと同時に、東アジアでの植民地帝国建設へ向けた、イギリス、フランス、オランダの虚しい努力にも荷担した。しかし、米国の帝国主義的な示威行為が原因で、今、大西洋を超えた絆が解けようとしている。核兵器以外にも多くの問題が山積している。多くのヨーロッパ人は、米国の価値観を尊重するどころか、米国で頻繁に行われる死刑を人種差別だと公然と指摘している。同様に、1998年2月に北イタリアのスキー場でゴンドラのケーブルを切断し20人の観光客を死亡させたジェット機の操縦士、海兵隊のリチャード・アシュビー大尉を懲役6カ月に処しながら早々に釈放させたことにも、米国の帝国主義的な傲慢さが表れているようだ。さらにヨーロッパ人を苛立たせているのが、世界中の人工衛星から送られるファクス、テレックス、電子メール、電話、コンピュータのデータなどを米国が不法に傍受していること、1971年からは海底ケーブルのほとんどに、エシュロンと呼ばれる盗聴プログラムを取り付けたこと(特にエシュロンが、米国の主要同盟国の民間の経済活動に関する情報も集めていること)についてである。

 NATOによる唯一の戦争である1999年春のセルビアおよびコソボへの空爆でさえ、NATO加盟国を深く分断させることになった。セルビアの「民族浄化」に対して民主主義国家が遅ればせながら介入した、と見せかけたものの、実際には、米国の軍事技術の誇示であり、結局、戦争犯罪の責任を問われることになった。中国は、コソボでの戦争は米国の高度兵器を試すことが目的だったと主張する。だからこそ、NATOは国連やその他の合法的承認なしに介入を行ったのであり、ベオグラードの中国大使館爆破があったために戦死者の数も中国が米国を上回ったのである(米国人の犠牲者はゼロであった)。アムネスティ・インターナショナルは、1999年4月23日、セルビアの放送局への爆撃は、意図的に民間の施設を標的にしたものであるから戦争犯罪だと結論づけ、またヒューマン・ライツ・ウォッチは、ユーゴスラビアの約500人の民間人犠牲者のうち半分は、民間人を保護するというNATOの法律や習慣を破った結果犠牲になったと発表した。ヨーロッパの冷戦は終わったが、米国政府が世界平和の安定以外の目標を持っていた、また今も持っていることが主な原因で、冷戦後の状況は安定した平和期には至らなかったのである。

[著者の許可を得て、翻訳・転載]