No.435 3つの冷戦(3)

チャルマーズ・ジョンソンの冷戦に関する論文の最終章をお送りします。今回は中南米における米国の冷戦政策に関する分析です。是非、お読み下さい。皆様からのご意見をお待ちしております。

3つの冷戦(3)

日本政策研究所論文 2000年12月号

チャルマーズ・ジョンソン

【 第三の冷戦:中南米 】

 死人に口無しというが、中南米の場合は、亡くなった人々がこの地域に対する米国の冷戦外交政策の卑劣なやり方をまざまざと物語っている。1992年、パラグアイの首都アスンシオンでは、かつての独裁者、ストロエスネル将軍政権の生存者が、コンドル作戦に関する大量の報告書や写真を発見した。コンドル作戦とは、ブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ボリビアの軍部や警察幹部が1975年から結託して行ったもので、労働者の代表や民主主義擁護者をできる限り多く見つけ、拷問にかけ、殺害するという作戦である。コンドル作戦に関する記録は他の中南米諸国にも存在するが、1998年にチリの元大統領、ピノチェト将軍を大量虐殺のかどで訴えたスペインの弁護士、ジュアン・ガルセスの言葉を借りれば、「パラグアイでは、すべて隠し通すことはできなかった」のである。1998年10月16日、ピノチェトがイギリスで逮捕された後、ピノチェトの送還を求めたスペインの判事バルタザー・ガルゾンは、米国の高官によって問題部分が削除される前に公文書館から1,500ページ以上の証拠を集めた。中南米ではいたるところで、テロを裏付ける証拠が明るみに出てきている。2000年6月、アルゼンチンの判事は、アルゼンチンとブラジルが軍事政権下にあった時代に、ブラジルで消息を絶ったアルゼンチン人3人に関する情報をブラジルに求めた。そして傍聴人が驚いたことには、ブラジルの最高裁はコンドル作戦に関するすべての文書を、アルゼンチン当局に提出するよう命じたのである。

 ホンジュラスの首都、テグシガルパの東80マイルにあるエルアグアカテでは、AP通信が「反共のための冷戦」と呼んだ戦いのために米国が1983年に建設し、その後放置された軍事基地から、拘置所監房と拷問の犠牲者の死体が発見されている。エルアグアカテは、目撃者の証言および記録をもとにホンジュラスが調査を行った場所の1つである。1980年代、ホンジュラスはCIAの最大の拠点であり、そこでは国内外の工作のために約14,000人のニカラグア人反革命ゲリラ(コントラ)が訓練を受けた。

 2000年8月24日、スペインのガルゾン判事署名の送還状に基づき、メキシコ当局は、アルゼンチンに逃亡しようとしていたリカルド・ミゲル・カバロをメキシコのカンクンで逮捕した。1976~83年のアルゼンチンの軍事政権の犠牲者になった人々の多くは、カバロを、ブエノスアイレスの海軍本部内部にあった「エスキュエラ・メカニカ」の拷問者のトップだったとしている。通常メキシコは、海外からの逃亡者の引渡しに関するいかなる協力にも応じないため、この逮捕は前例のないことだった。『ニュヨーク・タイムズ』紙は、「かつてアルゼンチンがナチの避難所であったように、メキシコは冷戦時の犯罪容疑を持つ中南米の軍の将校にとって安息所になっていた」と記している。アルゼンチンの軍事政権統治下では、軍の将校によって少なくとも30万人の人々が殺され、さらに5,000人が行方不明になっている。アルゼンチンの厚生省内の小さな部隊は、1991~98年に拷問の犠牲者を31,102人も治療した。これまで拷問者に対しては何の調査も裁判も行われていないし、賠償金もまったく支払われていない。

 中南米の冷戦に関するこのような事実が暴露されたのは、イギリスでピノチェト将軍が逮捕されてからである。その時点まで、1973年のチリの軍部クーデターによるアジェンデ政権転覆に関するCIAの情報や関与について、またコンドル作戦における米陸軍運営のスクール・オブ・アメリカズ(SOA)の卒業生の関与について、米国は口を閉ざしてきた。しかし、スペインからピノチェトの引渡し要求が出ると、中南米やヨーロッパの多くの犠牲者が口を開き、これによって米国も、自国が関わる人権犯罪の真相解明の国際努力に、少なくとも協力しているふりをしなければならなくなった。

 米国が直接関与し、注目を浴びた2つの未解決事件もある。1つは、1973年、ピノチェトの秘密警察である国家情報部(DINA)によって、2人の米国人が殺された事件で、殺されたのは、映画制作者で作家のチャールズ・ホーマン(31歳)と、その同僚フランク・テルッギ(24歳)である。またもう1つの事件は、1976年9月26日、ワシントンDCでチリの元駐米大使オーランド・レテリアと、彼のアメリカ人の仲間、ロニ・カーペン・モフィット(25歳)が同じくDINAに暗殺された。

 2000年1月、イギリスの内務大臣ジャック・ホールは米国が困らないようにと、スペインの送還状を拒み、ピノチェトにチリへの帰国を許した。しかし、ピノチェトへの優遇が続いたために、犯罪の追及の手も止むことなく、クリントン大統領はピノチェト政権に関する記録を公開するようCIAに命じた。それは完全な公開を命じるものであったが、2000年8月、CIA長官のジョージ・テネットは大統領の命令に反して、ピノチェトの記録の機密扱いを解くことを拒んだ。その情報を公開すれば、CIAの情報源および手口が知れ渡ってしまうからであった。しかし、すでに手遅れだった。両事件に対する米国の関与を明らかにし、冷戦に乗じて中南米で行われた米国の活動を説明し始めるべきだとのクリントンの命を受けて、すでに十分な情報が公開されていたからである。

 CIAが主張した、内容が内容だけに米国民には公開できないという手口は、CIAが訓練し、また権力に就かせた軍部や警察当局に、CIAが消えて欲しいと願う人物の名前を渡すという常套手段である。そしてその人物が殺されると、CIAはそれにまったく関与しなかったように振舞い、元生徒の行き過ぎた行為に驚きと失望さえ示すのである。これは、インドネシアでは、1965年のスハルト政権樹立から、1999年秋の東ティモールにおけるインドネシア軍部テロの犠牲者救済の拒否まで、米国が一貫してとってきたやり方である。また、ピノチェトを政権に就かせる時にも、コンドル作戦の関係においても、CIAは同じ手口を使った。

 1982年、フランスの映画監督、コンスタンチン・コスタ・ガヴラスは、“Missing”と題する映画を発表した。1973年9月19日、チリの首都サンティアゴの競技場で、二人の米国人、ホーマンとテルッギが殺されたのは、9月11日の軍事クーデターへの米国の関与を知りすぎていたためであったという筋書きである。初演から18年たって、映画の内容が実質的にすべて真実であることが確認された。ホーマンの妻が国務省の高官に、「チリ当局は米国側に事前通告なく、米国人を追放できるのか」と何度も質問する場面や、米陸海軍の武官が妻に、夫のチリ人の友人の名前を教えるようしつこく迫る場面も、新たに公開された文書によって事実であることが確認された。また映画の中でチリの米国大使が、ホーマンの父親に、息子は恐らく、新政権を困らせようとした左派によって誘拐されたのだというセリフがあったが、アジェンデ政権の転覆のときもそうであったように、これが典型的な米国大使館の活動だったと今になってはっきりした。

 国務省が2000年2月に開示した書類は、1980年にすでに公開されていたが、今回は黒く塗りつぶされた部分が復元されていた。復元された部分から、このホーマンとテルッギの消息が途絶えたその日から、国務省は、2人がピノチェトによって殺されたと知っていたことが明らかになった。さらにチリの米国大使館の役人は、米国情報局からの許可がなければチリ人は2人を殺さなかったであろうと見ている。『ニュヨーク・タイムズ』紙は、「同時期に逮捕された何千人ものチリ人同様、2人が殺されないまでも、虐待されることは明らかだったにもかかわらず、ピノチェトの秘密警察に2人を検挙するようにそそのかしたのは、おそらく米国の情報部および軍部である」と記している。

 チリの元駐米大使、レテリアの暗殺はさらにひどい事件である。アジェンデ政権で外務大臣を務めた後、レテリアは、政策研究所の準研究員およびアメリカン・ユニバーシティの国際関係論教授として1975年にワシントンに渡った。彼は、チリの国家情報部(DINA)長官、マニュエル・コントレラス将軍が命じた自動車爆破により殺されている。このことは以前からすべて知られていたが、今回、CIAが2000年9月18日に公開したレポートにより、1975年、コントレラス将軍はCIAに雇われて暗殺を働いており、その後もずっとその関係が続いていたということが明らかになった。

 コントレラスに関するこうした事実は、典型的なやり方のほんの一例に過ぎない。パラグアイにあるアスンシオン公文書館からは、米国の高官が、コンドル作戦諸国を、軍事援助だけではなく情報で支援したこと、またパラグアイの元大統領、ストロエスネルによる警察国家の設立および警官の訓練を米陸軍ロバート・ティエリー大佐が支援したことが明らかになっている。さらに、FBIが、FBIの記録にあったチリ人の名前を、ピノチェト政権に提供していたことも暴露されている。ワシントンに友好的な政府の法執行局間の慣例として、FBIはチリとの情報共有を正当化した。2000年7月にクリントン大統領の命令によってチリに関する文書を公開した時に、フランク・R・テルッギのチリでの活動を調べていたことを、FBIは初めて明らかにした。テルッギが行方不明になってから10日後、銃弾に撃ち抜かれた彼の死体が、サンチャゴの死体保管所で発見された。ブラジルの記録によると、コンドル作戦という言葉が最初に使われたのは、ブエノスアイレスにある米国大使館が送った1976年の電報からで、米国の工作員は、この地域の秘密警察と緊密に連携をとっていたことが明らかになった。その秘密警察官の多くは、米国が運営するスクール・オブ・アメリカズ(SOA)で学んだ者たちであった。

 中南米の冷戦は、ヨーロッパや東アジアのそれとは完全に異なる。共産主義が南北中央アメリカで問題になるずっと以前から、米国は中南米にある米国企業を助けるために、また強力な民衆運動に支えられた政府の登場を阻止するために、経済および軍事の両面においてこの地域に介入してきた。米国の国家安全保障会議は、カストロが登場する前の1953年には、翌年のCIAによるグアテマラの民主政府転覆を期待しながら、この地域に対する米国の政策について、最高機密文書に次のように記している。「中南米では、主に国民に訴えることで維持される国家主義的政権に向けた動きが見られる。この地域が、過激な国家主義的政権にならないよう阻止することが不可欠である」

 1959年のキューバ革命は、米国にとって思いがけない幸運だった。米国は、中央アメリカのユナイテッド・フルーツ・カンパニーやチリの銅採鉱会社など、中南米の米国多国籍企業による搾取的活動に対する民衆の怒りをほかに向ける方法がないかと模索してきた。この地域に共産主義の脅威があることを仄めかすことは、米国がそれまで検討してきた中で最善の戦略だった。カストロとゲバラ(アルゼンチン生まれの革命家。キューバ革命 (1956~59) の成功に貢献、のちに中南米でゲリラ活動を推進するがボリビアで射殺された)の登場は、中南米の近隣国の独立を脅かす外部勢力について、米国がこれまで示唆してきた懸念に現実味を与える格好の材料だった。中南米の民衆は誰もが、彼らの独立を実際に脅かしているのはどの国かよく知っていたため、民衆の力に依存することは米国には考えられなかった。そのため米国は、中南米の軍隊と同盟を結び、軍事政権を樹立するという政策をとった。他の地域で冷戦が始まるずっと前から、米国はこの戦略を実行に移していたのである。

 米国の外交政策の中で最も重要なものの1つが、1946年、パナマに設立された米軍のスクール・オブ・アメリカズである。中南米を不安定にさせる最大の拠点としてパナマのイルエカ大統領によって放逐され、1984年にはジョージア州フォートベニングに移された。この学校の教科には、対ゲリラ活動、軍事情報、尋問手法、狙撃、ジャングル訓練などが含まれている。米議会はこの学校の閉鎖をずっと試みてきたが、国防総省とホワイトハウスがいつもその予算を残す手立てを見つけ出した。2000年5月、クリントン政権はその存在を隠す新たな方法として、この学校の名前を西半球安全保障協力防衛学校と改名し、またその管轄を陸軍省から国防省に移した。マサチューセッツ州選出の民主党議員、ジョセフ・モークレイはこの変更を「有毒なごみに香水をふりかけるようなものだ」とし、「スクール・オブ・アメリカズは西半球で最も残虐な暗殺者、最も残忍な独裁者、さらに最悪の人権侵害者を育ててきた。人権擁護のためにジョージア州さえ変えられないのに、どうして他の国に人権を求めることができよう」と述べた。

 スクール・オブ・アメリカズ(SOA:頭文字がスクール・オブ・アサッシンズと同じことから中南米では暗殺学校としても知られている)は、中南米およびカリブ諸国の軍人および警察官を6万人以上、訓練してきた。その最も有名な卒業生には、パナマの独裁者、ノリエガ(麻薬密輸により米国の刑務所で41年間の刑期を務めている)、およびトリホスエレラ(パナマの軍人・政治家。1968 年の軍事クーデターで政権を掌握、国警隊司令官として事実上独裁者)、アルゼンチン軍事政権の元大統領ガルティエリなどがいる。また、エルサルバドルの暗殺隊のリーダーで元軍人のロバート・ドービソンもこの学校の卒業生であり、エルサルバドルのための国連真実委員会によれば、1980年3月24日に行われたエルサルバドルの大司教暗殺を計画したのは彼であり、また、1981年12月11日に、767人の無防備な人間を死なせ、米国で教育を受けたアトラカトル部隊によるエルモゾテ村に対する襲撃計画も助けたという。この国連委員会は、エルモゾテ村で使われた砲弾の破片を可能な限り拾い集め、つなぎ合わせた結果、すべてがミズーリ州レーク・シティで製造された米国政府向けのものであったという。

 またコンドル作戦の主要人物、チリの国家情報部(DINA)のベルマー大佐も、SOAの卒業生である。彼はピノチェト将軍に対する1998年のスペインの人権裁判で、名前が挙がった将校30人の中の1人である。ベルマー大佐は1976年サンチャゴにおいて、国連の役員でスペイン市民のカルメロ・ソリアの拷問と殺害に荷担したためにリストに加えられた。ソリアの車と死体は、事故死に見せかけるために、サンチャゴの運河に捨てられた。ベルマー大佐は、1968年にSOAの「基本軍事オリエンテーション課程」を卒業し、人権の客員講師として1987年にフォートベニングに招聘されている。

 人権団体、「SOAウォッチ」によれば、DINAの指揮官7人に1人はSOAの卒業生で、1970年に卒業したアルマンド・フェルナンデス・ラリオス中尉は、1974年、チリのアジェンデ政権の国防相カルロス・プラッツ・ゴンザレス将軍とその妻を殺した2人の国家情報部(DINA)のうちの1人だった。ラリオス中尉は、ワシントンDCでのレテリア暗殺への関与でも、1979年に米国の大陪審に起訴されている。プラッツ将軍とレテリアは2人とも乗用車を爆破され殺された。ピノチェト自身はSOAで学んではいないが、儀式用の剣を寄贈しており、1991年にはそれが同校の司令官室の目立つ場所に飾られていた。

 コンドル作戦が終わっても、中南米の民主主義主唱者の拷問、殺人、失踪は終わらなかった。SOAの1965年の卒業生、ヴラジミロ・モンテシノスの名前が2000年、ニュースで大きく取り上げられた。ペルーの軍事情報局のトップおよびフジモリ大統領の側近であった彼が、野党政治家へ贈賄を働き逮捕されたのである。米国は彼のパナマ亡命を助けた。SOAウォッチレポートは、ペルーの人権問題を取り上げ、1992年7月18日の大学生9人、教授1人の失踪は、モンテシノスによるものだとした。4人の警官が、モンテシノスは、彼らの拷問で中心的役割を果たしたと証言している。また、コロンビア最大のゲリラ組織、FARC(コロンビア革命軍)へのAK-47突撃銃、一万梃の売却にモンテシノスが関与したのも偶然ではない。

 SOAに送り込んだ兵士の数が最も多い国はコロンビアで、その数は1万人以上にのぼる。ヒューマン・ライツ・ウォッチおよび米国務省のコロンビアの年次報告書は共に、SOAの卒業生が、コロンビアの軍隊および準軍事的組織である暗殺隊とつながりがあり、1999年に起きた殺人、誘拐、窃盗にも関係していたと記した。コロンビアにSOAの卒業生がこれだけ多くいたことが、2000年7月に米国がここに完全な軍事拠点の展開を決めた1つの理由であろう。米国の推定では、コロンビアの2つの反乱組織、および軍部と関係のある右派準軍事組織が、コロンビアの領土40%を所有しているという。コロンビアはすでに世界第3位の米国からの援助受入国であるが、その援助額は大幅に増加するであろう。ノースキャロライナ州フォートブラッグの米国第7特殊部隊が、コロンビアのカケタ川とオルテグアザ川の合流点近くの秘密基地で、コロンビア軍をすでに訓練している。コロンビアの首都、ボゴタにある米国大使館は、国内外のジャーナリストにこの基地への立ち入り禁止を宣言した。

 コロンビアでは内戦が少なくとも36年間続いているが、米国は反乱軍が所有する領土でコカインの生産量が増加していることを警戒した。そこで、75億ドルを投じて、コロンビア計画と呼ばれる戦略を用意し、3,000人のコロンビア兵士で組織される3つの麻薬撲滅部隊の訓練を決めた。コロンビア兵士は、米国が提供する、ヒューイ2とブラックホークというヘリコプター60機で、戦場に向かうことになる。コロンビア革命軍のコカイン研究所は、実際にはペルーのジャングルにあり、コカインは、軍需品の輸入に使われたアマゾン川を辿って、米国やヨーロッパに運ばれている。コロンビア革命軍は、米国が空中作戦の基地としてエクアドルを利用するのであれば、エクアドルに侵攻するとも脅している。したがって、コロンビアに接する国すべてが反乱に巻き込まれる可能性は高い。米国側は、新しい、しかし完全にテストが終わっていない生物殺菌剤を上空からコロンビアの原野にまくことを計画している。ブラジルは、この作戦で上流にまかれた殺菌剤がブラジルの水源を汚染すること、また直接的な軍事作戦がとられて何千人ものコロンビア難民がブラジルのアマゾナス州に侵入することを恐れている。熟練ジャーナリスト、タッド・スザルクは、このコロンビア計画は、ベトナムにおける米国の作戦同様、コロンビアの歴史も文化も政治もよく知らない人が作成したと述べている。コロンビア計画は、中南米での最も古い第3の冷戦における、最新の動きにすぎない。

 米国の民主主義の根幹にある姿勢および政策は、少なくとも50年前からずっと変わっていないし、簡単に変わることもない。元を辿れば、ヨーロッパの戦後の緊張や、共産党の勝利に伴なう中国への執着、さらには反共産主義が中南米における米国の伝統的国益を高めるという発見に端を発している。これらのイデオロギー的な立場が支える帝国主義はこれまでも存在していたのだが、ヨーロッパの冷戦の終結と、米国による唯一の超大国としての立場の誇示によって初めて明るみに出た。米国がすみやかに国際的な課題を放棄したり、緩和させたりするという見込みはないだろう。したがって、元ソビエト連邦がそうであったように、アメリカ帝国がそれほど遠くない将来、過剰な帝国主義的拡大によって失墜することは避けられないであろう。

[著者の許可を得て、翻訳・転載]