No.437 IT革命は本物か(2)

前回に引き続き、「IT革命は本物か」と題する小論の第2弾をお送りします。

IT革命は本物か(2)

 

【 生産性をさらに上げる必要があるか 】

情報技術(IT)とは、製品やサービスの生産に、人間や動物以外の力を提供する最新のエンジンやツールの1つである。ITの価値とは、生産性を上げることができ、人間が製品やサービスを生み出す力、有益なことを行う力を増すことができるということにつきる。

しかし、今以上に生産性を上げる必要があるのだろうか。生産性の増加は、我々にとって有益なのか、それとも有害なのか。この問いかけこそが、ITを考える上で重要なのである。生産性を増やす必要がないのならば、そのためのツールに投資をする必要はないし、生産性増加が我々に害をもたらすのであれば、ITツールへの投資拡大も有害となるからである。

この問いに対する単純かつ予想される回答は、生産性の向上は良いことであり、生産性が上がればより幸せになるというものである。しかし残念ながら、この単純な回答は間違っている。日本の生産性は過去最高を記録したが、それと同時に失業率も倒産件数も、倒産による負債額も、また自殺件数や犯罪件数も過去最悪となった。日本の生産性は米国や他のG7諸国の平均をすでに30%も上回っており、OECD諸国の平均より70%も高い。それでも日本経済は、米国やG7やOECD諸国よりもずっと健全ではないといわれている。

この生産性の比較において、私は生産性の分析で有効と考える唯一の指標に基づいている。すなわち、野球の打率を求めるのに安打を打席で割るように、私は、国家の生産性は、その国の全生産高を示すGDP(国内総生産)を人口で除して国民1人当たりの生産高で表すのが最も適切だと考える。この方法で計算した日本の生産性の過去40年間の推移を見ると、1990年代の生産性の平均は80年代の2倍、70年代の4倍、また60年代の16倍というように10年毎に指数関数的に上がっている。これは換言すると靴やシャツ、メガネ、テレビ、自動車などの製品の国民1人当たりの生産高が10年前の2倍になり、20年前と比べると4倍、30年前と比べると16倍に増えたということだ。

経済学の授業で我々が最初に学ぶのは、健全な経済とは需要と供給の均衡がとれていることだということである。需要が供給を超えると、少ない供給を奪い合うことになるため価格が上昇し、インフレが起こり、所得や貯蓄の価値が目減りする。それとは逆に、供給が需要を超えると過剰在庫を売りさばくための競争で価格が下がり、価格低下と競争の激化で弱い企業は駆逐され、強い企業は生き残りのために雇用削減を行う。この後者こそが今の日本の現状なのである。

自動車、ロボット、工作機械、自動販売機、情報技術、その他の生産性向上ツールに対する巨額の投資によって、製品やサービスの供給は需要を大幅に上回るようになった。厳密にいうと、生産性へ多大な投資をしたがゆえに、我々の消費能力以上に、大量生産、大量流通できる商品やサービスの供給が増大したのである。市場には大量生産の製品やサービスがあふれ、企業は生き残りをかけた熾烈な競争を余儀なくされている。その結果、弱者は倒産に追い込まれ、強者は雇用を削減し、そのために日本社会は今、過去最悪の失業と倒産を記録し、その2つに付随した社会問題が多発している。

純然たる事実は、技術の進歩が生産性を押し上げ、それによって製品やサービスの生産能力は上がるが、技術の進歩では消費能力を押し上げることはできないということだ。日本の生活水準はすでに30年前から高かった。現在、その頃と同じ費用と努力で16倍の商品やサービスを生産できるようになった。しかし、消費者は、30年前の16倍のものを使いきることはできない。それは消費したくても資金が足りないからではない。大量生産された商品やサービスを購入したくてもできない人が、あなたの周りに数多くいるだろうか。本当に欲しいものならば、1,300兆円もの個人金融資産がなぜ使われないのであろうか。

国内に需要が期待できないからといって、大量生産された商品やサービスの過剰分をこれ以上輸出にまわすこともできない。過去30年間、日本経済の生産能力は目を見張るほど増加したが、生産物の提供先の内訳はほとんど変わっていない。GDPの内訳は、1955年以降、ほぼ一貫して以下のような割合になっている。

個人消費    60%
民間資本形成  30%
社会消費     9%
純輸出      1%

輸出は一貫してGDPの約10%で、輸入は約9%であった。日本の生産能力は、30年前に比べると16倍に増加したが、輸出は生産されたもの全体の10%であり、したがって残りの90%は国内で消費しなければならない。民間資本形成とは、商品やサービスの生産および流通のために行われる投資である。こうしてみると、生産されたものは、個人消費、社会消費、および純輸出(輸出-輸入)の3つに振り分けられることがわかり、GDPに占める民間消費の割合を厳密に求めるには、民間資本形成の中から、個人消費向けがどれくらいかを割り出す必要がある。それは、以下のような数式から求められる。そして、日本経済全体のGDPのうち個人消費60%に、民間資本形成のうち個人消費に使われた26%を加算した合計86%が、日本のGDPの中で個人消費に向けられた分であるといえる。

60%(個人消費)
30%(民間の資本形成)×——————- =26%
60%(個人消費)+10%(社会消費+輸出)

ここにも日本が今ジレンマに直面していることが見てとれる。もし民間投資(資本形成)を削減すれば、GDPの内訳の中で2つ目に大きな項目が縮小し、さらに多くの倒産と失業が起こりうる。しかし投資を続ければ、日本経済の商品やサービスを供給する能力は消費能力をさらに上回り、現在の供給過剰は膨らみ、倒産、失業、自殺、犯罪件数などが増え続けるであろう。

このジレンマから抜け出すには、我々の経済に関する考え方、経済の管理の仕方を変えるしかない。これについては後半で詳しく述べるが、その前にここで私が述べていることをいくつかの業界を例に説明したいと思う。

様々な業界の中で最も苦労しているのが自動車業界である。それは過剰生産能力を抱えているためで、1999年1月のロイター通信の記事によれば、すでに2年前に、世界の自動車の生産能力は需要を2,000万台も上回っていたが、その後も生産能力は増加している。過剰な生産設備は、過剰投資によるものである。自動車産業は全世界に生産拠点を持っており、そのため各国政府には自動車業界を効果的に規制できない。また業界内部にも自己抑制機能がないため、競争は激化する一方である。各自動車メーカーは、この熾烈な競争を勝ち抜くために、生産性と競争力を増加させようとかなりの投資を行い、気がつけば大半の企業が生き残れないところまで生産能力を拡大してしまった。日産、マツダ、クライスラー、そしてイギリスではすべての自動車メーカーがより巨大な自動車メーカーに吸収されてしまった。巨大な自動車メーカーは人件費の安いところに生産拠点を移転させては、それまでの設備を閉鎖し、雇用を削減し、実際の需要レベルまで生産能力を抑えている。

同様に苦しんでいるのが金融業界である。自動車メーカーとの大きな違いは、金融業界は最近まで政府によって規制されてきたため、自動車メーカーほど、世界的規模の競争で苦しむことはなかったということである。しかし、政府による国内の金融規制の緩和および金融界のグローバル化によって、世界の金融機関は熾烈な競争に巻き込まれることになった。各々の銀行が競争力を上げようと技術に投資したことで余剰能力が生まれ、多数の銀行が倒産した。そして強い銀行は弱小銀行を買収し、支店を閉鎖し、従業員を解雇し、需要に見合うレベルに銀行の処理能力を縮小させている。

もう一つの例が小売業である。大店法の緩和により、ダイエーや西友などの高度に自動化された大規模小売店が、街の小規模店舗を相手に自由に競争ができるようになった。無数の小規模小売店が駆逐され、それが倒産や失業、それに伴う社会問題を増加させた。しかし、競争の激化により、小売業全体の処理能力も過剰となり、大規模小売店自身も、店舗数を減らし、従業員解雇を余儀なくされている。

上記はわずか3つの例であるが、政府規制が緩められ、談合のような業界内部の自己抑制も弱まったために、過当競争に苦しむことになった業界である。過当競争になると、競合各社は情報技術や他のツールに投資を行い、その一方で最もコストのかかる人件費を削減することで、競争力や生産性を高めようと躍起になる。その結果、製品やサービスの生産能力、流通能力は向上する一方で、雇用が奪われ、労働者の不安が増すため、結果として需要も減少する。

事実、ITの適用により、過剰な生産能力が生まれている。販売、マーケティング、流通、金融投機は、情報技術が最も適用されている分野である。企業が広告宣伝、マーケティング、販売、流通のためにIT投資を行うのは、過剰在庫および過剰生産能力を抱えているからである。需要と供給の間に均衡がとれている経済であれば、そうした機能を強化する必要はない。またITが金融投機に多用されるのは、特に日本では過剰な貯蓄があり、そのほんの一部しか支出に使われないからである。そしてすでに生産能力がだぶついているため、一般消費者や金融機関は生産的な投資先がなかなか見つけられず(民間資本形成)、そのため株式や債券、外貨、デリバティブを対象とした投機に走っているのである。