No.635 レーガン元大統領の足跡

 アメリカ合衆国40代大統領を務めたロナルド・レーガン氏が亡くなった。その国葬に日本から政府特派大使として派遣された中曽根元首相は「共産主義との冷戦を自由主義への勝利に導いた偉大な大統領だった」とレーガン氏の業績をたたえたという。

レーガン元大統領の足跡

 “ロン、ヤス”と呼び合って日本の対米追随を強化した中曽根氏だけでなく、日米の主流メディアもハリウッド俳優からアメリカ統領としてアメリカ、世界に大きな足跡を残したレーガンを賞賛した。空港にその名を冠しただけでなく、10ドル札の肖像にという話もでている。メディアが指導者の死を悼むとき報道の公平さや正確さという視点が欠けていることは少なくないが、レーガン大統領への賛美はメディアがその政策を支持していることの表明なのであろう。

 1980年の大統領選でレーガンは自由市場の推進と政府の介入を排除する公約を打ち立てた。当選するとレーガノミクスとよばれる供給面(サプライサイド)の経済政策を推進した。所得税減税、規制緩和を通じて貯蓄と投資を奨励し、経済成長による税収の増加、さらに支出削減によって政府の財政を1984年までに均衡させるという公約は、レーガン政権の最期にはカーター前政権の3倍もの赤字額となった。結局、レーガノミクスは金持ちや兵器産業を含む大企業への大幅減税と、教育や福祉支出の大幅削減に過ぎなかった。

 米紙が死亡記事でレーガン元大統領を「アメリカの小さな町の信条」が投影された人物とたたえたが、小さな町どころか高級住宅地マリブに住み、妻ナンシーはレーガノミクスの恩恵を受けて高額の報酬を手にした友人たちから贈られた高級ドレスを身にまとった。そして自由市場や規制緩和政策で産業が空洞化し多くの労働者は雇用を失い、貧富の差が拡大した。

 国外にもレーガン元大統領は大きな足跡を残した。ソ連を「悪の帝国」と呼び、グレナダ侵攻、リビア空爆を強行した。

 イラン革命後、現在米軍が拘束しているフセイン元大統領に武器をはじめとする支援を行った。レーガンの大統領特使として当時2度にわたりフセイン大統領と会談したのはラムズフェルド国防長官だった。当時のフセイン政権とアメリカの関係がどこまで明らかにされるか、七月以降のフセイン裁判の行方を見守りたい。

 スキャンダルもあった。イランに武器を売却した利益をニカラグアの反政府勢力コントラの支援にあてていた。カストロがキューバに社会主義政権を打ち立て、貧困に苦しむニカラグアの人々もその革命に熱狂した。多くの困難の中で新しい国づくりを進める中、大統領となったレーガンは冷戦の緊張から中米にキューバのようなソ連に友好的な社会主義政権ができることに異常な恐怖心を抱いて経済制裁を発動、一九八五年には医薬品を含む全面禁輸を行った。

 その一方でコントラに多額の援助を行い、殺人を行わせた。ニカラグア政府はハーグ国際司法裁判所などを介して国際社会に訴えたがレーガンはそれを無視した。さらにカリブ海の小さな国グレナダの社会主義政権を一九八三年に軍隊を派遣してつぶした。軍隊派遣の理由は“グレナダに法秩序と民主主義を回復させることが目的”と、いまのイラク戦争とまったく同じだった。

 レーガンの遺産は他にもある。貧困者のための福祉削減、教育支出削減で貧しい家庭の子供たちは高等教育の道を閉ざされた。元俳優のレーガンは、これらをすべてにこやかな笑顔を浮かべながら行った。自由化や規制緩和は金持ちはもっと金持ちに、貧乏人はもっと貧しくなるための政策で、貧困層以下で生活するアメリカ人は30%以上増加した。

 金融規制緩和を推し進めた結果、貯蓄貸付組合(S&L)の破たんで、その処理に5000億ドル以上の税金が使われた。これらは小泉政権が推し進めている「小さな政府」政策と同じであり、政府は無能だ、事業を効率よく行えるのは民間企業だという経済哲学による。たとえその民間企業のトップが政府からの天下りだとしてもだ。

 1917年から1941年の時代のアメリカとイギリスについて描かれた本を読むと、両国のエリートの多くは共産主義者を恐れ、毛嫌いしたが、ヒトラー、ムソリーニ、フランコといったファシストたちを敬愛とまではいかなくても容認していたことが分かる。つまり米英のエリートたちがもっとも恐れたのは、自分たちが搾取する一般大衆を守ろうとする政党や主義、思想だった。ベトナム戦争、冷戦、レーガン元大統領が中米にしたこと、これら階級闘争はアングロサクソンの国ではずっと当たり前の考え方だった。

 そして日本も、明治になってそれを模倣し追随することを選んだ。脱亜入欧は平等主義からアングロサクソンのファシフトの国になるための試みだった。レーガンをたたえる中曽根元首相、小泉政権と、それはますます強まっている。