No.783 銃の国に追随する意味

先月、愛知県で元暴力団組員が人質をとって自宅に立てこもり自分の子どもと警察官を撃ち、警察官が亡くなった。その前には長崎市長がやはり暴力団から銃撃され死亡した。また同じ頃東京の町田市でも暴力団の男が銃を持って住宅に立てこもった事件がおきている。

銃の国に追随する意味

 
ここ数ヶ月の間、日本でも銃を使った事件が立て続けに起きたが、それでもほとんどが暴力団員によるものであった。このような事件をみると、銃を持つ者がある状況に置かれて感情のコントロールができなくなると、どのような結果をもたらすかということがあらためてわかったのではないだろうか。

米国では先ごろバージニア工科大学で銃乱射事件が起きて32人が射殺された。1999年にコロラド州のコロンバイン高校で13名が射殺され、犯人も自殺するという事件があったが、それを上回る大規模な学校銃乱射事件だった。学校といえば日本でも小学校に侵入した男が包丁で児童8名を殺害し死刑になっているから、暴力という手段をとる人間の手にわたれば銃であろうと包丁であろうと危険なことには変わりはない。しかし米国には2億丁近い銃が市民の手にあり、毎年3万人以上が銃で殺されている。

包丁は日常的にも使われるが、銃の目的は弾を撃つことだ。言い換えると、弾を撃つために銃が存在する。銃を所有する権利を主張するのは、弾を撃つことを保護して欲しいということだ。弾を撃つことがなぜそれほど大切なのだろう。この考えの基本には米国憲法がある。憲法修正第二条に「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であり、国民が武器を所有し携帯する権利は、損なうことができない」とあり、これが銃規制反対の根拠となっているが、現代における自由な国家に武装した民兵がなぜ必要なのか、理解できない。

銃は究極の自己防衛だから所有が許されるべきだ、という人もいる。寝る前に枕元に銃があれば「安心」だという人もいるだろうが、それが「安全」かどうかは疑問である。実際、家庭に銃を保有することはそれによって家族や友人が殺される割合は大幅に増える。私が幼かった頃、米国の我が家に銃はなかった。父は家に武器を置くべきではないという強い信念を持っていたためだ。竹刀を持っていたとしても剣道の達人に挑戦を挑んで勝つことができないように、防衛のために銃と弾を保管しておいたところで、強盗が銃を持って侵入してきたら弾を詰める時間もなく、逆に銃があることで撃たれる可能性は増える。銃に弾を入れて保管しておけば、子供が誤って発砲する事故につながる。要は銃があったところで安全になるどころか、より危険になるというのが父の考えだった。

10年以上も前になるが、ルイジアナ州で日本人留学生がハロウィーンで道を尋ねに立ち寄った家で射殺された事件があった。銃を持っていなくても危険な社会なのだが、さらに近年米国では、正当防衛であれば、逃げることなく相手を殺してもよい「正当防衛法」という法律が多くの州で成立している。つまり銃の携帯権、そして使用が認められているのである。

学校での銃乱射事件の再発防止策は、銃規制ではなく「安全を守るために」学校関係者が銃で武装するべきだという主張すら聞かれる米国だが、皆が武装すれば安全だと思うことは愚かしい。これは国家同士の関係についても言え、実際、米国は国家レベルでも同じことをやっている。どこかの国が軍備を増強して危険かもしれない、だから米国はさらに核弾頭を配備する、というものだ。

 
殺人はますます簡単になっていると、ある軍事専門家が書いていた。理由は、昨今使われる武器は銃であり、刀や刃物と違って感触もなく、引き金を引くだけだからだ。人を殺すという罪悪感は、その距離と反比例して距離が遠ければ罪悪感は薄くなる。飛行機で爆弾を落として人を殺しても、その実感は薄いのだ。

銃を必要不可欠だという米国社会、そして世界でどこよりも多くの核弾頭を持っている米国。広島、長崎に原爆を投下し、そしていまでもイラクで米国が行っていることをみれば人を殺す、ということについていかに罪悪感が薄いかがみてとれまいか。日本の政治家が真に平和を求める気持ちがあるならば、他国民を、さらには自国民すらも自分たちの手で毎年銃の犠牲にしている国に追随することの意味をよく考えるべきである。