No.1019 相互扶助の実践

前回、自然界を観察し、生存競争ではなく集団で相互に助け合いながら生きている生物のように、人間もそのような社会を形成すべきだと提唱したロシアのクロポトキンの「無政府主義」について取り上げた。クロポトキンがこの思想に至ったのも、貴族に生まれながら幼少で母親が亡くなり、使用人に育てられ、階層制のなかで支配する側とされる側、両方の視点を体験したことが大きい。

もともと人間は、地域の中で互いに助け合いながら、生産したものを分け合って暮らしてきた。それは一般大衆が身近な人々と展開する相互扶助に基づく生活共同体であり、ソ連のような国家共産主義ではない。さらにクロポトキンが強調するのは、そのような共同体ではトップからの命令ではなく、ローカルレベルで人々の間で自発的に物事が始まることが必要だということだ。無政府主義、アナーキーという言葉に拒絶反応をする前に、いまの「政府」や「国家」という仕組みが、果たしてわれわれ個人の幸福のために機能しているのかを考えてみてほしい。

特別な命令系統などないにもかかわらず、生存のために生態系がとる複雑な行動は、あたかも自然界には秩序があり知性や意思があるようである。人間以外の生物が「政府」という組織なくして協調して生存できるなら、さらに高度な存在である人間が例外のはずはない。しかし、大きな生態系の中で人間だけは地球を国家で分断し、各国の政府は細かい規則を作り、ヒエラルキーからなる社会はさまざまな命令系統によって運営されている。その政府を維持するには多くの費用が
かかり、破綻するところもあるほどだ。そしてどの政府も、そこで暮らす大部分の国民に幸福を提供しているとは言い難い。

政府はさまざまな規制を作り、政府がなければ人間は生きてはいけない、無政府主義はテロリズムに等しいと言い続けることで、国民を政府に依存した存在にしてきた。国民が政府に依存する下の階層である限り、政府はその反対を無視してTPPを推進し、消費税を増税する。資本主義における優先順位は、ヒエラルキーの上下と等しく、国民の幸福は政府の目標ではないからだ。そして歴史を振り返るまでもなく、国家間では戦争が途切れることはない。戦争とは同じ仲間である人間の殺し合いだ。

世界の多くの政府が採用するアングロサクソン資本主義が求めているのは協調ではなく競争だ。日本社会が今日のように競争、格差社会になったのも、アングロサクソン資本主義を盲目的に採用したからであり、相互扶助で成り立っていた社会は自己責任の競争社会に変貌した。

しかし同時に、私の周りには政府をあてにすることなく、自らの意識で相互扶助の関係を大切にし、過疎化した村を復興させたり、小規模農業を支援する人々が出てきている。この動きは日本の未来への明るい希望となると私は思っている。過去最高の不支持率となった野田政権を前に、日本人はそろそろ自分自身の持つ力に気づき、政府に頼らず相互扶助にもとづいて共同体づくりを始めるべきではないだろうか。社会の目的とゴールは、そこで暮らす人々の『幸福』である。心
から幸せを望むのであれば、国民自身、政府に頼るのではなく地域社会の中で周りの人々との相互扶助を実践してみること、それが無政府主義の第一歩ではないだろうか。