No. 1622 民主主義、最も危険な宗教:パート3

民主主義、最も危険な宗教:パート3

政府のリーダーを選ぶ

by Larry Romanoff

アメリカ合衆国の最も素晴らしい点の一つは、この国が真に無限の政治的機会を持つ国であることである。ここでは教育も訓練も経験もなく、知性も能力もない人間、また堕落しやすい性格の人間が、アメリカ合衆国大統領になることができる。そして多くの人がなっている。そしてそれはアメリカだけではない。

欧米の民主主義モデルの最も明白な欠陥の一つは、選挙で選ばれた政府高官がその地位に就くためにいかなる資格も必要としないことだ。このエッセイのために、セブンイレブンの人事担当者と話をしたのだが、店長になるには、何年かの小売店でのマーケティング経験が必要で、応募者には大学の学部卒が非常に好まれるとのことであった。しかし、欧米の民主主義国家の大統領や首相になるには何の前提条件もない。これが狂気だと思うのは私だけではないだろう。セブンイレブンの店長でさえ最低限の資格は必要なのに、アメリカ大統領やカナダ首相、その他の西側民主主義国の首相には何も必要ないというのは民主主義制度の重大な欠陥である。

複数政党による選挙制度(「民主主義」)では、誰でも国の運営を“試みる“ことができる。もし失敗すれば、経済が悪化し、何百万人もの人々が仕事や家(あるいは命)を失うかもしれないが、本人は何も失わない。他の分野で、これほど大きな権力を持ち、これほど大きな責任を負いながら、無能であったり判断ミスをした場合にもほとんど影響を受けないというのはありえないことだ。西洋人が直視できない、直視したくない何かがここにあることは確かである。知的な人間である私たちが、どうしてこれが最高のシステムだと言い切れるのだろうか。 この点だけをとってみてもこれが最高であるはずがない。すべての指標は最悪の事態になる可能性があることを示している。

ここには何か不穏な倒錯したものがある。学校、病院、企業、慈善団体でさえも、具体的な目的にそった実態があり、誤った管理をすれば深刻な結果を招く可能性のあるのに、政府はゆがめられて実態が伴なわず、参加要件は必要とされず、ひどい不始末があっても結果を追求されないのだ。政府、つまり国全体を戦略的に管理することは、ある種のチームスポーツのように扱われ、経験不足や無能でも、地位を得るための決定要因とはならない。この図式は何かおかしいと思わないだろうか?「政府」は「政治」に置き換えられるのだ。

明確にしよう。一国の管理、何千万人、何億人という国民のための戦略的方向性を決め、実行することは、重大な責任を伴う大仕事である。そのような経営チームのリーダーであることは何にも代えがたいことだ。一国の首相や大統領は、すべての国民の幸福、経済、国の外交政策とすべての他国との関係、そして軍事とそれに関連する決定について責任を負っている。この人物の決断は何百万人もの命を犠牲にし、世界の平和と安全を向上させることも、低下させることもできる。その責任は重大であり、無知で経験の浅い、そして訓練を受けていない子供のための場所でないことは誰もが認めるところだろう。

欧米のリーダー選びにおける致命的な欠陥を十分に理解するには、別の種類のモデルと比較するのが最も簡単であろう。私が中国政府の手先であるという非難が殺到することが予想されるが、中国のやり方を見てみることにしよう。欧米のモデルについては、最後に触れることにする。

中国政府のリーダーを選ぶ

背景を少し

欧米人の多くは、毎年約1,000万人が受験する中国の大学入試制度「高考」について、少なくとも聞いたことはあるだろう。この試験は3日間にわたって行われ、多くの科目が出題されるため非常に難しく、過酷とさえ言えるかもしれない。この試験には幅広い理解と深い知識、そして高い知性が要求される。この試験は完全に実力主義でえこひいきは許されない。成績優秀者は15億人の上位1%に入る。高得点を取れば、上位2〜3校の大学に入ることができ、卒業後の就職、高給、生活がほぼ保証される。しかし、成績が下位になるほどその可能性は低くなる。

中国にも司法試験制度があり、新卒の弁護士が中国で弁護士として活動する前に必ずこの試験に合格しなければならないことを知る欧米人はほとんどいない。この試験については、「厳しい」「過酷」を通り越して、「厳粛」に直結している。この試験は高い知性だけでなく、法律に関する深い知識と法律全般に関する幅広い知識を必要とし非常に難しいため、多くは受験しようとは思わない。約25万人の大学院生が受験する中、合格して中国で実際に弁護士として活動できる資格を取得できるのは約2万人である。もしあなたが中国人弁護士に会ったら、15億人の上位0.1%の人と接していると考えて間違いない。

以上2つの項目は、3つ目の「公務員試験」を紹介するために挙げたものである。

国家官僚として優秀な行政官を選抜するために何世紀も前に考案されたのが「科挙(Imperial civil service examination)」である。72時間にも及ぶ試験で、合格するためには非常に深く幅広い知識が要求された。ある人は、「試験自体に受験資格がないという点で、極めて公平な制度であった」と述べている。この試験は、貧しい町の最も教育水準の低い家庭の出身者でもほとんど誰でも受けることができ、十分な成績を収めれば、公務員になり、上級管理職に昇進できる可能性があった。現代の公務員試験制度は皇帝時代のものから発展したもので、現在では毎年何百万人もの卒業生が受験している。この試験は非常に難しい。200万人の受験者のうち合格するのはわずか1万人ほど。そして合格しても就職できるわけではなく、面接が受けられるだけである。中国中央政府の公務員になった人に会うと、気が遠くなるほど頭がいいだけでなく、並外れた教養と幅広い国家問題への知識を持ち、さらに15億人の上位0.01%に入る人と話しているのだと安心することができる。

そして、この試験は中国の中央政府の一員となるために必要な知識と経験を30〜40年かけて積み重ねることの始まりに過ぎない。この小さな集団の中の上位1%が政治局を構成し、その数人の中の1人が中国の国家主席になるのである。公務員試験に合格し、国家政府の幹部や公務員となる彼らは、実力によってのみ昇進し、責任を負うことができる手強い実力主義の中で生涯のキャリアを積んでいくことになる。

ここで、中国人は一般的に標準的なIQテストでは白人の西洋人よりも約10%高いということを考慮しておく必要がある。このことと、中国のプロセスが下位99.99%の人間を選択から除外し、さらに15億人の中からその選別を行っていることを考え合わせると、中国の中央政府の人間は、他のほとんどの国の人間よりむしろ優秀であると期待できる。そして、彼らはそうなのだ。つまり、欧米諸国の「政治家」と中国政府の役人の質の差に注目してほしい。その格差はあまりにも大きく、比較することはほとんど意味がない。中国の政府関係者は皆、高度な教育を受けたエンジニア、エコノミスト、社会学者、科学者であり、多くの場合、博士号レベルである。中国の一流大学のキャンパスを訪れれば、共産党がこの国の優秀な若者を惹きつけ続けていることは誰の目にも明らかだろう。

中国では家族のコネがあれば特別扱いの息子が政府の仕事を得られると言う人がいる。この主張は、地方レベルの小さな役職には当てはまるかもしれないが、それ以上は極めて難しく、国家レベルでは不可能である。いくらコネがあっても上級職に就くことはできないし、意思決定のトップに立つこともできない。そういう場所は、深い経験と確かな能力を持つ人のために用意されている。また、一族の富や影響力は、このような人事には一切関係ないことも特筆すべき点である。中国の最高統治機関である政治局(25人)のうち、富と権力のバックグラウンドを持つ者はわずか7人である。残りは、中国国家主席や首相を含み、特別に有利な経歴を持たず、実力だけでトップに立った。中央委員会という大きな組織では特権的な経歴を持つ者はさらに少ない。欧米のメディアが使う中国の「小君主」という表現は単なる無知で不快な人種差別である。

ここでもう一つ、欧米では決して語られることのない極めて重要な区別がある。欧米の民主主義国家には「政治家」と「公務員」がいるが、この2つは全く異なる。公務員は重大な資格を必要とする仕事で、選挙で選ばれた無能な人間に国税庁や交通網を運営させるわけにはいかない。公務員は政治家とは関係なく機能している。しかし中国には「党」が一つしかないため、中国には欧米が「政治家」と呼ぶものは何もない。事実、そして現実には、中国の政府関係者はすべて「公務員」と呼べる。彼らは皆、様々なレベルの単なる管理職である。欧米では、カナダを例にとると、財務省や外務省の上級公務員は、部署の実務についてたいていほとんど知らず公務員に知識を照会しなければならない選挙で選ばれた政治家を軽蔑していると言われている。中国ではその逆で、外務大臣や財務大臣が究極の知識の宝庫なのである。これは本質的にどの企業でも見られることで、財務担当の副社長が最終的な権限を持ち、むしろ「選ばれた」幹部が「学びながら稼ぐ」場所として財務部を任されている、これが選挙制民主主義で見られることなのである。

世界ナンバーワンの大学

中国でも欧米でもあまり知られていないことだが、北京には世界最高の大学があり、それは間違いなく世界一で他のどの大学とも異なり、その構想力と実行力は欧米のすべての大学を凌駕している。この大学は、「中国で最も謎めいた学校」とも呼ばれる中央党大学で、学生も教員もハーバード、ケンブリッジ、ソルボンヌなどの大学とは桁違いの陣容を誇っている。入学資格が極端だというのは控え目な表現だ。ハーバード大学のように、基金に500万ドル寄付すれば、主にパートタイムのいわゆる「非常勤教授」が教え、頭の悪い子弟の入学許可が得られるというような場所ではないのである。

1933年に設立されたこの大学の目的は、公務員試験の合格者を教育・育成し、キャリアアップと世界で最も人口の多い国の統治に携わる人材の育成にある。将来のリーダーを育成する場であり、校長は通常、中国国家主席が務める。現在までに、この大学はおそらく10万人の政府指導者や高官を養成してきた。通常は一般に公開されていないが、過去数十年の間に、この大学は哲学、経済学、法律、政治、歴史に焦点を当てた非常にハイレベルな大学院および博士課程を約500人の一般学生向けにも提供している。

100ヘクタールの緑豊かなキャンパスは極めて静かで、ここでは中国の他の大学とは異なり自転車を見かけることもなく、校舎の外の道路には黒のアウディがずらりと並んでいる。門は24時間体制で武装警備されている。省長や大臣、若手や中堅の役人などここで学ぶ人たちや、そのゲストスピーカー、時には国のトップリーダーなどのために必要な警備である。

入学者が公務員試験に合格した上位0.01%の優秀な学生であるだけでなく、この中央党大学の教授陣は、多くのアメリカの大学の非常勤講師とは一線を画す、世界でもユニークな存在である。ここの教授陣はもっぱら国家で最も有能な人たちである。ゲスト講師には中国の高官をはじめ、経済、国際金融から社会政策、外交政策、産業政策、軍事問題まで、重要な論題について話せる世界一有名な専門家をどの国からも積極的に招聘している。さらに、頻繁に行われるゲスト講師には他国の国家指導者やその他外国の高官が多く、これにより、中国の役人は、中国を統治するために必要な知識と技術をしっかりと身につけるだけでなく、視野を広げ、異なる文化、価値観、政治システムをより深く理解することができる。

この学校の教育方針の基本は、「すべてを議論する」ということである。禁じられた話題はなく、反動的、革命的、あるいは単なる奇抜な立場であっても、議論し、分析し、解決に向けて討論される。例えば、国民健康保険がテーマであれば、あらゆる計画、問題点、解決策、選択肢について、著名な専門家とともに、議論、検討、討論、説明される。このセッションが終了したときには、受講生は全員、このテーマ全体についてMBAレベルかそれ以上の理解をしていることだろう。そしてこれは、彼らが遭遇する多くのテーマのうちの一つに過ぎない。

これらの職員がすでに高い教育を受けて政府に入ったということを考慮すれば、そしてすでに幅広い理解力と卓越した知性を実証している時、このような訓練と教育を重ねることで政府全体の知識と能力のレベルが驚くほど向上する。このようなシステムは西洋には存在しない。

一般的には、最も有望な若手・中堅幹部は、様々な時期にこの大学に1年間通い、中国と政府に関するあらゆる問題についての知識と理解を深め、その後昇進するのが通例である。中央党大学での勉強と並行して、地方、省、国家レベルのあらゆる政府部門や、国内外のさまざまな国有営利企業での勤務が交互に行われる。多くの場合、これらの勤務や体験は、この大学での授業と交互に行われ、学生は前の勤務地で学んだことを吸収し、次の勤務地への準備をすることになる。

一人一人は、小さな地方自治体から、企業の財務部、医療機関の幹部、州の教育長、そして小さな市の市長などを経験し、次に企業の別の部門長、より大きな都市の市長、州の知事、大手国営企業の上級役員やCEOなどを歴任し、そのたびに大学に戻って追加の教育や訓練を受けることもある。彼らは、より良い「政治家」になる方法を学んでいるのではなく、一国のあらゆる側面を「管理」する方法を学んでいるのだ。

評価

各政府または企業の人事では、それぞれの段階で、在職者はさまざまな基準で評価される。異彩を放ち続ける人はより大きなビジョンと責任のあるポストへと進む。限界に達したと思われる者は、脇へ追いやられる。解任や解雇ではなく、能力に見合ったポストが与えられ、それ以上のレベルには上がれない。これらのことから中国は世界で唯一、能力のあるものがトップにくいる政府システムを持っていると言える。

中国のシステムでは、リーダーや役人は、無資格で無知な「一般人」ではなく、上司から評価される。欧米諸国のある都市の市長を考えてみよう。一期務めた後、誰がその人物を評価するのだろうか。そのような評価を行うための訓練も経験もない一般市民である。「一般市民」は、その仕事や必要条件を理解していないし、知的な評価の根拠となる事実も持っていない。その結果、表面的なことが決め手となり、本質的に人気投票と化してしまう。 「市長は何をする人ですか」と聞かれて、答えられる人はほとんどいないだろう。「市長をやっている」というのは答えにならない。 実は、漠然とした一般論を除いて、市長の仕事の機能や責任について私たちはほとんど知識も情報も持っていないのである。もし、市がうまくいっているように見えたとしても、それが市長の手腕によるものなのか、それとも市長がコントロールできない状況によるものなのか、私たちには分からない。不都合な真実は、有権者である市民は、市長が良いか悪いか、無能か腐敗しているかどうかを知る術がないことである。なぜなら、有権者は市長の良し悪しを判断する手段も知識も持ち合わせていないからだ。

中国の制度では(上記の「教育プロセス」の一環として)、市長は、先輩である、彼が生まれる前に大小の都市の市長であった人物、自分の仕事のあらゆる側面を徹底的に理解し、欺かない人物から評価される。企業でも同じで、例えば営業部長の仕事ぶりは誰が評価するのだろう?営業マン?工場の作業員?いや、彼らには知識も能力もない。彼の仕事を熟知し、彼の業績と昇進の可能性を正確に評価できる上司が評価するのである。

地方政府のリーダーも同じ状況にあり、彼らの業績は、仕事を深く理解し、欺くことのない、地方を統治した膨大な経験を持つ先輩たちによって評価される。しかしここには、欧米人には決して理解できないもっと多くのことがある。入学試験に合格し、この生涯実力主義のプロセスに乗った男(または女)は、ある地方の知事に任命されるかもしれないが、これはそれまでの善行に対する高い地位の報酬ではない。そうではなく、これは試練なのである。通常この新任者は一つの質問を持って就任に臨む。「どうすれば、この州のGDPを2倍にし、全住民の生活水準を向上させることができるのか」。そしてGDPを2倍にするのである。

ここで実際によくある事例を紹介しよう。ある新任の知事が県内で最も貧しい場所を探し出し、進歩の機会を探るために大規模な調査チームを配属した。そのチームは、その土地の気候と土壌条件が、ある種の漢方薬の栽培に適していることを発見し、直ちに植物原料の調達、インフラの整備、農民への必要な教育プログラム、さらにサプライチェーンと販売方法の確立に取りかかった。そして5年以内にこの地域の住民全員が新しい家を持ち、半数以上がBMWに乗るようになった。こうした経済的な要素も重要だが、あくまでも数ある指標のうちの1つであり、候補者はこうした要素で評価されるのである。ここで成功した後、その人は党の大学に戻ってさらに教育を受け、次の任地に行くことになるのだろう。そして30〜40年後、さらに能力を発揮すれば、中国の全人代のメンバーになれるかもしれない。

比較

政治家が何の教育も受けておらず、関連する訓練や経験もないことがほとんどの欧米とは対照的である。

カナダの最近の首相の一人、スティーブン・ハーパーは、学部を卒業した程度で、仕事は企業の郵便室で働いただけだったが、破滅した政党の残党に加わり、党首になり、本当に残酷な運命で最終的には首相になり、自分の無知さのため、カナダに回復不能な損害を与えた。彼の後継者であるジャスティン・トルドーは、学校の教師をクビになり(検索してみてほしい)、彼のルームメイトは巨大な児童ポルノ組織を運営していたとして10年の刑を言い渡されている。カナダのアルバータ州の元州首相(ラルフ・クライン)は高校中退の元テレビニュース記者で、知性や統治能力よりも不愉快な常習飲酒者として有名で、カナダで間違いなく最高の医療制度だったものを完全に破壊した人物である。アメリカのジョージ・ブッシュ大統領は、自分は一冊も本を読まないと豪語し、C級映画俳優であることを唯一の信条とするロナルド・レーガンと同じくらい痛々しいほど知性がないことで有名であった。

この人たちはみなセブンイレブンの店長になる経歴すらも持たず、知性も統治能力も感じられない人ばかりだった。しかしばかげた不条理な政治制度が彼らを国家や地方の最高経営責任者にすることを許したのである。

欧米諸国の政治家の経歴や資格を調べてみると、そのほとんどが政治的野心に溢れた不適格者の集まりで、資質が著しく欠けており、しばしば芯から腐敗していることが分かるだろう。2008年の住宅危機では、中産階級の50%が資産の半分を失った後、2年以内に米国議会の議員たちは劇的に資産を増やしたことが広く報じられた。

欧米の政治家が、道徳性と信頼性の両面で、中古車販売業者よりも低いランクで低俗であることは驚くにはあたらない。最近のあるアメリカの世論調査では、アメリカ全州議会の両院の政治家はゴキブリやシラミよりも人気がないと評価された。 欧米の政治家は、当選した後、当選する直前に国民に約束したことを自由に放棄することが真理として受け入れられており、政治的二枚舌や狡猾さはすべての欧米社会で普通のこととして受け入れられているのである。これは、ある米国のコメンテーターが最近、「もちろん、すべての政治家は嘘をつく必要があるが、クリントン夫妻はそれを簡単にやってしまうので困る」と発言したほどである。中国ではそのようなことは聞かれない。人々に嘘をつくことは致命的だが、欧米では政府指導者の不誠実な態度は平然と受け入れられている。

政府制度について議論するとアメリカ人は必ずと言っていいほど、自国の民主主義制度の優位性を示すために、「われわれには無能な政治家を投票によって排除する権利がある」という主張を展開する。このような主張が、他国の知的な人々にとっていかに異様で愚かしいものに聞こえるかは、彼らには想像もつかないだろう。自国の政治制度の優位性を自慢したいなら、そもそも無能者を選ぶことはありえないと言ってほしい。後から追い出す権利があるなんて言うべきではない。それは失敗を公然と認めているということだ。

もうひとつ、教育や訓練という要素もある。国を形成する決定権を行使する欧米の政治家にとって、統治するための教育や訓練は、実は皆無である。一種の「学びながら稼ぐ」システムである。一方、中国では、よほどの資格でもない限り、エントリーは不可能であり、一度入れば教育や訓練に終わりはないのだ。

このシステムは中国国内では一般的によく理解されており、中国の文化や伝統とうまく調和している。また、儒教的な概観や社会秩序と調和を求める中国人の精神にも適合している。欧米諸国はこのことをほとんど理解しておらず、必然的に中国とその政府について間違った、そしてしばしば不合理な結論を出している。中国の政府の形態について簡単な基礎知識さえ学ぼうとする西洋人はほとんどおらず、代わりに中国は独裁国家だとか、ある作家が最近述べたように「深く専制的な政権」だとか、馬鹿げたことを鸚鵡返しするのを好んでいる。 もちろん、そんなことはない。欧米のイデオロギー的盲目と故意の無知のレベルにはただただ呆れるばかりである。

エピローグ

もしあなたがアメリカ人なら、自分の国が、最も知的で、賢く、腐敗しにくく、教養と経験のある500人を特定し、集め、このグループを議会に充て、その中から最も優れた数人をリーダー(大統領と閣僚)に選んだらどうなるかを少し考えてみてほしい。このグループはイデオロギーによって分断されることなく、全員が同じチームの一員として、アメリカとアメリカ人にとって最善のことを実行するために協力し合っていると考えてみてほしい。5年後、あなたの国はどうなっているだろうか

さて、もう一つ考えてみよう。数多くの政府関係者、外交問題の専門家、シンクタンクの参加者、そして多くの学者が、異口同音にこう述べている。

    国内政策でも国際情勢でも、何か重要なことが起こるときには偶然はない。何か重要なことが起こるときは、間違いなくそのように計画されていたのだ。

多党制の選挙制度(民主主義)が始まってから数百年が経つ。しかしその間、誰も(どうも中国人を除いては)、洗脳されていない劣等生を街頭からかき集めることは良い政治につながらないとは考えなかったようだ。この数世紀の間に、何十もの失敗した政府、あらゆる種類の大失策、崩壊した経済、繰り返される不況、延々と続く戦争などがあったが、これらはすべて何千人もの無能な政治家による「人民による政府」によって引き起こされた。そしてそれでも、こうした長い年月と数え切れないほどの何百回もの選挙を通じて、教育と能力に関する真剣な資格があれば改善されるかもしれないとは、誰も思いつかなかったようである。

さて、全国から優秀な人材を選び、幅広い教育と訓練を施せば、より高いレベルの政府職員が生まれることは、私にとって自明のことであり、あなたにとっても同様に自明のことに違いない。何世紀もの間、このことに気づいていたのは、あなたと私の二人だけだったとでもいうのだろうか。

ヨーロッパのユダヤ人銀行家、すなわちロンドン・シティを拠点に活動するハザール・マフィアが、君主制に代わる一連のヨーロッパ革命を引き起こしたとき、その主要な動機の一つはこれらの国からこれ以上ユダヤ人を追放することを不可能にするような国政を構築することであった。そのためには、君主制に代わって、裏から完全にコントロールできる政治形態が必要だったのである。その結果生まれたのが、この複数政党による権力闘争のシステムなのである。

また彼らは、この国の優秀な人材よりも、政治的な意欲はあるが、経済的余裕がなく、知性も知識もなく、能力もほとんどない一般市民のほうが、ずっと簡単に買収し、支配し、腐敗させることできると最初からわかっていた。

最後に考えてみよう。この明白で致命的な欠陥は、(ユダヤ人所有の)メディアでは決して言及されず、(ユダヤ人が出版した)歴史や政治学のテキストでも議論されることはなかった。少なくとも私の知る限りでは。その代わりに、「民主主義」は、それを疑問視することが反逆的な冒涜となるくらい神聖な宗教に昇華されている。全人類の憧れを反映した普遍的な価値として、生まれたときから毎日絶え間なく宣伝されてきた。不思議だと思わないか?

https://www.unz.com/lromanoff/democracy-the-most-dangerous-religion-part-3-choosing-government-leaders/